とつとつとしてろうとせず

ひまつぶしにどうぞ。

詠みやすい文章

噺家の語りなんぞを聞いていると、惚れ惚れするほど歯切れよくことばを繋いでいく様に毎度感心してしまう。湯水のごとくことばを吐き出すなんてのは、少しばかり口が達者でありさえすれば素人様にだってできる真似だが、聞く者が思わず溜め息を吐いてしまうような語りをするというのは生半可なことじゃあない。なんせ喋りが飯種になるほどの一芸である。時に流れるように、時にゆっくりと、声の大小やら抑揚の強弱、高さや低さや濁っているか澄んでいるかなんてのまで気をつけて出しているのだろう。才能と絶え間ない稽古あっての冴えだと思うが、いやはや感じ入るばかりである。
文章でも同じようなことができないだろうか、などとふと考えた。この場合は話としては逆なのだが、つまり、読んでいて気持ちのよい文章、もっというと、詠み上げたときに耳心地のよくなるように書かれた文章というものはできないだろうか。いやできないも何も詩歌というのはそういうものじゃないかとすぐにツッコミをもらいそうだが、これは散文についてもこういう心構えで書いた方がよりよい文章になるんじゃないかという話である。一年かそこら前に読んだ谷崎潤一郎の『文章読本』にもこういうことが書いてあって、いたく共感したのを覚えている。文章を書いたとき、一度それを頭の中で読み上げてみて、調子よく音が繋がっていかないようならことば選びや句読点の位置を変えて修正する、なんてことを俺もよくやるし、そういう観点から文章を直している人もそれなりにいるのではなかろうか。
詠みそのものの善し悪しは当然詠み手の技量によるわけだが、詠み手を固定したときに、多くの場合に気持ちよく詠むことのできる文章には、何か普遍的な形式があるのではないか(もちろん、詠み手の日本人としての文化的背景が共通でなければならないだろうけど)。もしそういうものがあるのなら、それを身につけられればよりよい文章が書けるだろう。確かに文章の第一義はその内容を読み手に伝えることであって、調子がよいだけで中身すっからかんの空文を長々と読ませるのは有り体にいって非人道的である。とはいえ、厳密さにこだわりすぎれば皆がみんな学術論文みたくなってしまうし、分りやすさだけを優先するとこれはこれで味のない心に訴えるもののない文章ばかりで溢れてしまう。少なくとも俺は、できることならより「美しい」文章を書いてみたいと思う類いであるし、そういう文章が巷にもっと増えてほしいと願う輩でもあるのだ。

文章読本 (中公文庫)

文章読本 (中公文庫)

LaTeXiTがおかしいときは

自分用の備忘録。
LaTeXiTを使っていて、タイプセットはできるのに出力画像が真っ白で何も表示がないという状況になったので、今の今までずっと放置していた。今日になってまた使いたくなったので原因を調べてみたところ、アップデートによってコマンド設定がリセットされ、pdflatexを使うようになっていた。どうもこれだと俺の環境では動かないようなのでplatex+dvipdfに切り替えたところ、今度はエラーが出てタイプセットすらできなくなった。エラーメッセージ曰く

GPL Ghostscript 9.16: Can't find initialization file gs_init.ps.

だそうである(前回はここで諦めた気もする)。ググってみるとWindowsの場合は環境変数周りの設定が原因だとか出るが、Mac環境なのでようわからん。
そこでもう強引にhomebrewでインストした方を使うようにシンボリックリンクを張り替えてしまった。そしてなんとこれだけで解決してしまった(それって根本的な解決にはなりませんよね?)。当然、問題のあった方のGhostscriptを起動すると上のメッセージがまだ出るわけなのだが、まぁいいや(でも今は、そんな事はどうでもいいんだ。重要な事じゃない)。数式画像が出せればそれでいいんです!
普段意識しないで使える分、Ghostscript周りのトラブルって厄介な気がする。なんにしても、LaTeXiTがおかしなときはGhostscriptを一度疑ってみることをおすすめする。

人を殺さば鬼となり、鬼を殺さば鬼となる

徒然草にこういう一節があるそうだ。

人の心すなほならねば、偽りなきにしもあらず。されども、おのづから、正直の人、などかなからん。己れすなほならねど、人の賢を見てうらやむは、尋常なり。至りて愚かなる人は、たまたま賢なる人を見て、これを憎む。『大きなる利を得んがために、少しきの利を受けず、偽り飾りて名を立てんとす』とそしる。己れが心にたがへるによりてこのあざけりをなすにて知りぬ、この人は、下愚の性移るべからず、偽りて小利をも辞すべからず、仮りにも賢を学ぶべからず。

狂人の真似とて大路を走らば、即ち狂人なり。悪人の真似とて人を殺さば、悪人なり。を学ぶは驥のたぐひ、しゅんを学ぶは舜のともがらなり。偽りても賢を学ばんを、賢といふべし。
『徒然草』の83段~85段の現代語訳

鬼に同情しろとはいわない。なぜなら鬼は人ではないから。しかし、鬼の真似は鬼を生む。いかに鬼とて粗略に過ぎる扱いは人を鬼となすばかりである。人は鬼ではない。鬼になりたくなければ、人の行いに準ずるべきである。
鬼に同情しろとはいわない。鬼には鬼の扱いがある。さりとて人は鬼の行いをなすべきではない。鬼が人を殺し、人が鬼を殺し、鬼が鬼を殺すのならば、世に人の住む余地など残らぬだろうて。

自然化されえない領域

いかなる哲学も自然化されるべきである、とまではさすがの自然主義賛同者たる俺でもいえない。少なくとも独我論、すなわち純粋な実在論の領域は、いつまでも自然化されえない領域として残るであろう。なぜならそこは科学が成立する前の「手付かずの世界」であり、科学的に組織化可能な知的活動領域とは、人間の脳が自ずから飛び越えてしまっている底のない陥穽のはるか先にある「成型された宇宙」だからだ。世界と宇宙の乖離を解消し、それらを接合しうる人間が存在しうるとは到底思えない。このこと以外の点、つまり、宇宙に関する諸々の知的活動はいかなるものであれ科学的に処理すべきであるという主張には全身で賛成する。というのも、科学的方法論だけが人間に許された唯一妥当な方法であり、最高の手段が望めない以上、最もマシなものを選ぶのは理の当然であると俺は信じて疑わないからである。

政に似て非なるもの

いきなり肩を叩かれて、振り返ると知らない人が立っている。彼はなぜだかにこやかに、片手を上げて挨拶をする。「スマーハ! アリンジャ・ニメロン?」――そんなことばは聞いたこともない。そもそも顔も見たことのない人間に聞き慣れない言葉を投げかけられる所以がどこにあるのだ。これがまだしも同じ文化圏なら救いもあろう。眉をひそめて意図を尋ねれば、こちらの不快が伝わるのだから。不幸なことに、彼のお里は杳として知れない。
俺の不信などどこ吹く風、彼はまだまだ朗らかに、分節化不可能な音の連なりを奏でてくれる。なんと妙なる響き! もう涙が出そう。いっそ愛想笑いでもしてやろうか。誤解されこそすれ、所望のコミュニケーションが成立するとは思えないけど。
いきなり現れた理解不能な隣人とどう接していくべきか? 征服か、融和か、隔絶か。いよいよもって、ことは政治に昇華する。