とつとつとしてろうとせず

ひまつぶしにどうぞ。

塵積もる

賢しい人は十五も数えぬ内から賢しい。愚かな人は五十路を過ぎても愚かなままだ。積み重ねた時は、そのまま素直に高さを上げるわけでも、重みを増やすわけでもない。血と熱と力の伴わない履歴の経路に、蓄積される質量の嵩は知れている。無為に流した時空に応じて、ただ埃と塵だけが薄く薄く裾野を広げるように厚みを増していく。長く年経て生き長らえて、積み上げた諸々が芥に尽きるはあまりに寒々しい。歴史の重量は力の偉大さと等価である。打ち立てられないもの、刻みつけられないもの、痕が残るほどに押し込まれないものは、誰にも記憶されないままに吹き散らされてきらびやかに空虚を泳ぐ。忘れられることすら端から不可能な何かに成り下がったものは、誰にも顧みられない、誰にも引用されはしない。
何も知らない若者が、何かを知ったような顔をしている大人を馬鹿にしていいのはそれが理由だ。精々両の掌に、乗せられるだけのありったけをかざして、得意げに微笑むことのできるようにならなければね。

居所

哲学者の神は儀式の手順について語らない。生活様式の細かい指定も、民族文化が発展すべき方向性についても教えてくれない。一方、民衆の神は世界の神秘を語らない。存在の本質も、道徳の起源とあるべき姿についても、欠片ばかりのコメントすら呟かない。
信仰の問題とは結局何をめぐる問題なのだろうか。それは一種の哲学上の難問にまつわる思弁的なものなのか、それとも死者に対して敬意を表する方法論に関する流派の選好の問題なのか。信仰は個人の問題であるといわれる。蓋しそれは正確である。というのも、問題の設定や目的意識が個々人において見事な不一致を示し、まともな統一案はその影のようなものすらも生半に見つけられるような状態ではないからだ。人々は、問題の設定の仕方、思考や活動の進め方について、互いの指針を確認したり、教授したりして協力することができる。しかし、問題そのものは結局のところ共有できず、寂しさを紛らわせること以外の目的で、信仰の問題を旗印に結集することに、大した意味はないように思える。
何にせよ、俺は未だに自分が何を気にしているのか、それがよく分かっていないままだ。

寄与の有無

通念に反し、哲学と概念工学が等しいものでないことは明らかである。しかし、哲学が概念を用いて行われる営みであるならば、概念工学の理論ないし成果を取り入れることはありうることであるし、それによって従来の帰結や了解が少なからぬ変更を被ることもまたありうることであろう。逆に、哲学によって発明され、洗練されてきた諸概念を概念工学が改訂しあるいは解体し、異なる理論展開につなげていく可能性も十分考えられる。哲学者と概念工学者が互いの仕事を蔑ろにし、互いの活動を黙殺することは大いなる損失である。哲学と概念工学は学問としての存在の価値と意義が重複した冗長な体系なのではなく、相互の交流を通じて同様に発展を遂げるべき重要な学問であると思われる。
哲学はあからさまに役に立たないし、そもそも役に立つことを志向しない。一方で、概念工学はあからさまに役に立つこと目的とし、その成果の良し悪しは最終的に役に立つかどうかの審級において判断される。上述の関連性が真ならば、前者は後者を通じて役に立つことが可能である。表面的な利用可能性のみだけで、これらの学問の必要性を云々することは短絡的であるし、実際上危険であるとすらいえると俺には思われる。

溜息

無神論者が必ずしも不敬虔でないことはスピノザが見事に論証しまた自ら体現した。逆にいかなる有神論者も不義暴虐をなしうることは昨今の世情と過去数千年の歴史がまざまざと物語っている。無神論者の犯罪者は当然存在するし、無神論者の慈善家も当然存在する。そして、これはまったくそのままに有神論者にも該当する。無神論と反社会的思想との間に必然的で論理的な結びつきが存在しないことは、健康な精神の持ち主であれば子どもであっても理解可能なことがらであり、ものの道理を弁えた大人であればむしろ知悉してしかるべき常識だと俺は信じる。にも関わらず、無神論を背徳者の堕落した思想と悪罵する不健康な輩は後を絶たない。彼らは全体何を根拠にそういっているのだろうか? もしもそう主張出来るだけの十全な論拠があるというのであれば、そのことそれ自体が背徳者とされる理由なのであって、無神論者であることがその主たる部分でないことは明らかだ。何ら非難されるところのない人間を不明瞭な推論に基づいていたずらに指弾すること、それこそが不敬虔な行いでなくて何だというのか。彼らは今一度、自分が主張しようとすることの意味を胸に手を当ててよく考えるべきである。

ねつがくのちからってすげー!

熱学思想の史的展開〈1〉熱とエントロピー (ちくま学芸文庫)

熱学思想の史的展開〈1〉熱とエントロピー (ちくま学芸文庫)

熱学思想の史的展開〈2〉熱とエントロピー (ちくま学芸文庫)

熱学思想の史的展開〈2〉熱とエントロピー (ちくま学芸文庫)

熱学思想の史的展開〈3〉熱とエントロピー (ちくま学芸文庫)

熱学思想の史的展開〈3〉熱とエントロピー (ちくま学芸文庫)

図書館の新着コーナーにあったので読了。熱力学はいまだに苦手意識があるというか、よくわからないまま放置してる感があるが、やはりこうした歴史的な経緯と合わせて解説されると分りやすい(ごめんなさい正直途中の式の導出とかは結構飛ばしました(汗))。特に熱力学第二法則はエネルギーの散逸のみを意味しているのではなく、物質の散逸をも意味しており、クラウジウスによるエントロピー概念は当初これらの和として定義された、という話はなるほどと思った。物質の拡散によってもエントロピーは増大し、環境汚染を除去し元の状態に復元するためには夥しい量のエネルギーを必要とする、という話はいまでは当たり前かも知れないが、著者は30年前から(あるいはクラウジウスは100年以上前から?)警告していたというのだからすごい。
後はトムソンによる絶対温度の定義がカルノー関数によってなされるという話が興味深かった(やっぱカルノーって天才だわ)。熱力の授業で習ったのかどうかさえもはや記憶も曖昧だが、こうして何度も勉強するというのは本当に大事なことだなぁと思った。昔は一度聞いた話だから飛ばしていいやなんて不真面目に聞き流していたけど、年々自分の不出来さが身にしみて分かるにつれて、何度も何度も繰り返し聞かないと身につかないことが分かってしまった。一生これ勉強ですな。