とつとつとしてろうとせず

ひまつぶしにどうぞ。

数式コマンドのリンク回避

はてなブログでMathjaxを使ってTeXコマンドで数式を書いていると、ときたま数式画像が生成されないことがある。以前にも書いたことだが、これははてなキーワードへのリンクが勝手に貼られてしまい、コマンドとして解釈されないためだ。前回は小手先のトリックで何とかしたわけだが、現在はこれは気にしなくてもよくなっている。というのも、すでに2014年の半ば頃からはてなブログtex記法はデフォルトでMathjaxになっていたらしいからだ。それ以前のtex記法はpng画像化されるため、有り体にいって汚い数式だったためにMathjaxを導入したわけだが、その心配は随分前に無用のものとなっていたようだ。

tex記法の中で書いた文字列にははてなキーワードによるリンクは貼られない。たとえば、Mathjaxを導入した状態で

$\cosh(x)$

と書いてもリンクが貼られてしまい、こうなる($\cosh(x)$)。
一方で、

[tex: \cosh(x)]

tex記法を使えばもう大丈夫、ちゃんと表示される( \cosh(x))。
うーむ、もっと早くに気づいておけばよかったな。情報のアンテナを張るって大事ですね。

空気

空気はなくてはならないものだ。空気は声を届けるからだ。心の震えが喉に伝わり、喉の震えを空気が運び、まだ見ぬ供の鼓膜を揺らす。空気がなければ、誰にも声など届かない。どれだけ喉を嗄らしても、どんなに力を込めたとしても、馬の耳さえそよともしない。伝え、運び、結びつけ、力を帯びて引き寄せる。空気がない場所では、誰しも沈黙を強いられる。
高い高い山の頂は空気が薄い。眼下に臨む雲海にありとあらゆる真理がたゆたい、透明な煌めきがいくつも散りばめられていても、その様子を語ることは許されない。立っているのもやっとのような空間。呼吸もままならず、思考は途切れ途切れになり、世界が歪んで潰れてしまいそうな内圧に、たとえ耐えられるほどの狂気を持ち合わせていたとしても、すべては奪われ、示すことすら叶わない。別の頂に登り詰めた供たちと孤独を分かち合おうとも、悲しみは心を震わせるばかりで何も謳いはしない。頂でしか得られぬものは空気の不在が覆い隠す。
伝達と共有を初めて可能にする機構の存在が、伝達も共有も不可能にしてしまう光景がある。俺はそれを語りたい。しかし、そんな奇跡は神さまにだって起こせやしない。

塵積もる

賢しい人は十五も数えぬ内から賢しい。愚かな人は五十路を過ぎても愚かなままだ。積み重ねた時は、そのまま素直に高さを上げるわけでも、重みを増やすわけでもない。血と熱と力の伴わない履歴の経路に、蓄積される質量の嵩は知れている。無為に流した時空に応じて、ただ埃と塵だけが薄く薄く裾野を広げるように厚みを増していく。長く年経て生き長らえて、積み上げた諸々が芥に尽きるはあまりに寒々しい。歴史の重量は力の偉大さと等価である。打ち立てられないもの、刻みつけられないもの、痕が残るほどに押し込まれないものは、誰にも記憶されないままに吹き散らされてきらびやかに空虚を泳ぐ。忘れられることすら端から不可能な何かに成り下がったものは、誰にも顧みられない、誰にも引用されはしない。
何も知らない若者が、何かを知ったような顔をしている大人を馬鹿にしていいのはそれが理由だ。精々両の掌に、乗せられるだけのありったけをかざして、得意げに微笑むことのできるようにならなければね。

居所

哲学者の神は儀式の手順について語らない。生活様式の細かい指定も、民族文化が発展すべき方向性についても教えてくれない。一方、民衆の神は世界の神秘を語らない。存在の本質も、道徳の起源とあるべき姿についても、欠片ばかりのコメントすら呟かない。
信仰の問題とは結局何をめぐる問題なのだろうか。それは一種の哲学上の難問にまつわる思弁的なものなのか、それとも死者に対して敬意を表する方法論に関する流派の選好の問題なのか。信仰は個人の問題であるといわれる。蓋しそれは正確である。というのも、問題の設定や目的意識が個々人において見事な不一致を示し、まともな統一案はその影のようなものすらも生半に見つけられるような状態ではないからだ。人々は、問題の設定の仕方、思考や活動の進め方について、互いの指針を確認したり、教授したりして協力することができる。しかし、問題そのものは結局のところ共有できず、寂しさを紛らわせること以外の目的で、信仰の問題を旗印に結集することに、大した意味はないように思える。
何にせよ、俺は未だに自分が何を気にしているのか、それがよく分かっていないままだ。

寄与の有無

通念に反し、哲学と概念工学が等しいものでないことは明らかである。しかし、哲学が概念を用いて行われる営みであるならば、概念工学の理論ないし成果を取り入れることはありうることであるし、それによって従来の帰結や了解が少なからぬ変更を被ることもまたありうることであろう。逆に、哲学によって発明され、洗練されてきた諸概念を概念工学が改訂しあるいは解体し、異なる理論展開につなげていく可能性も十分考えられる。哲学者と概念工学者が互いの仕事を蔑ろにし、互いの活動を黙殺することは大いなる損失である。哲学と概念工学は学問としての存在の価値と意義が重複した冗長な体系なのではなく、相互の交流を通じて同様に発展を遂げるべき重要な学問であると思われる。
哲学はあからさまに役に立たないし、そもそも役に立つことを志向しない。一方で、概念工学はあからさまに役に立つこと目的とし、その成果の良し悪しは最終的に役に立つかどうかの審級において判断される。上述の関連性が真ならば、前者は後者を通じて役に立つことが可能である。表面的な利用可能性のみだけで、これらの学問の必要性を云々することは短絡的であるし、実際上危険であるとすらいえると俺には思われる。