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とつとつとしてろうとせず

ひまつぶしにどうぞ。

意味の流れ

自然現象は認識者にとっての記号である。ある事象(たとえば「雨が降る」)は認識者に対して様々な意味をもたらし、認識者を通して新たな事象、すなわち別の記号を生産する(たとえば「傘をさす」「軒下に駆け込む」)。記号言語という設定はこの関係を部分…

物理的に埋め込まれた言語

言語学的概念が物理的な環境の中に埋め込まれている、という発想は確かに面白い。温度の実体が分子の熱運動であるように、言語学的概念を直接的に物理学的概念に還元することまではさすがにできないだろうが、類似の発想でもって言語学的現象を解釈すること…

反逆ではなく新たな秩序の到来

腐った血は抜かねばならぬ。弱った手足は切り捨てよ。狂しい程の痛みと夥しい屍の上に、瑞々しい命が立ち上がる。再生の丘、蒼い黎明に響き渡る産声こそ福音の笛の音である。 古き人々は栄華を極め、同時にその衰耗を知った。彼らは神々に地上を委ねた。 神…

狂気と獣

狂気といって何を思い浮かべるか? たとえば目を背けたくなるような猟奇。熱い血に濡れ、荒い息を吐き、屍肉のこびりついた刃を振るい、人体とその尊厳を同時に斬り刻むような凶行は、確かに狂気に属する。あるいはそれを人は「獣」のごとき振る舞いであると…

原子論的描像の破棄

原子論的描像、すなわち、物体は最小単位の構成要素が結合することによって成り立つという命題を保持することなく、陶器の食器が衝撃によってバラバラに砕けるような、物体の破壊現象を説明することはできるだろうか。明らかに、現実世界における実際の現象…

合理的な魔術への到達可能性

現在の自然科学は帰納法による推論、すなわち、自然の斉一性を原理として仮定することで成り立っている。ある現象が十分に単純で外乱に対して頑健であるならば、その現象の原因となる現象を起こすことで、その現象は何度でも再現することができる。 魔術の可…

用途

もしも魔法が使えたら、あなたは何をしたいと思うか。その問いに答えるためにはもちろん、魔法で何ができるかをあらかじめ知っていなければならないが、魔法という限りは、ある程度のことはできると考えてよいだろう。さてしかし、魔法の存在が、結局は目的…

自己限定と自縄自縛

今からすることはこのようなことであって、あのようなことではない。自分がなすべきはこの範疇に分類されることがらであって、そこからはみ出ることは許されない――などと考えていると、視野と自由度を狭めることになりはしないか。やりたいことをやりたいよ…

重み付けの配分

何が作品の質を決めるかと考えれば、当然それは物語としてのおもしろさということになる。そしてそれは、いかに登場人物を魅力的に描くかということに落ち着くだろう。さて、ここに設定へのこだわりという要素が入る余地はないように思える。というのも、物…

逆行

厨二病的な要素の否定を厩二病とでも呼ぶとすれば、それは流行りに対する逆行、つまり、過去に流行っていたものの復古にしかならないのか。そうかもしれない(だからこそそれは「病」の評を免れえない)。しかし、あからさまにダサいと感じているものをその…

ほぼ空気の透明人間

贔屓目を差し引いたとしても、おそらく俺の考えている設定はある程度独自性の強いものだと思う。もちろん、それが聞き齧っただけの知識を引用しただけのパクリであることは大前提の上での話である。ここでいう独自性とはとどのつまり、他の作品と比べたとき…

並び立ちえない二つのもの

法則の併存はありえない。もしも矛盾対立する二つの法則というものがあったとすれば、どちらかが誤った仮説であるか、もしくはそれらを統一するさらに高次の法則が成り立っているのでなければならない。物理法則と非物理法則が同時に並び立つことはない。必…

呪文は魔術のアイデンティティか?

戦闘において魔術師が銃に勝利するためには魔術には呪文の詠唱が不要なのでなければならない――では、それは設定として「魔術」なのか? そう、確かにそれは魔術ではない。もしも呪文の詠唱が魔術のアイデンティティであるとすれば、その詠唱が本質的ではない…

神の自己認識

神が記号を認識することによって記述は意味を持ち、逆真理条件を満たせば対応する事態が実現し、事実として成立する。実在性を付与するもの、現実性に付随する当のもの、それが神である。それは見るものであり、見られるものであり、それらは同じ一つのもの…

銃と詠唱

魔術師は銃を持つか? 持つだろう。こと戦闘において、武器としての銃の優位性は揺らがない。なぜ異能バトルもので銃を圧倒する戦闘シーンが描かれるか、なぜゴジラには自衛隊の砲撃が効かないのか。それはもちろん、銃撃を無効化することでその強さや無敵感…

魔の術

より正確を期すなら、「魔術」や「魔力」といった用語の使用は好ましくはない。なぜなら、サハーにおけるそれらは「聖−邪」や「神−魔」、「法−混沌」といった対立空間の内部にはないからだ。それはサハーに本来的に具わっているもの、というより、サハーの運…

必然的な到達可能性

神が朧気ながら保持している前世の記憶は、サハーに対する現実世界からの到達可能性の隠喩として理解できる。これはつまり、虚構世界に例外なく人間=読者が理解可能な言語を持つ射影としての存在者が住んでいることと同じことであり、虚構世界に到達可能性…

力の源と盲目の意志

逆真理条件という発想を捨てきることができないというのであれば、魔術は、論理空間に含まれる諸事態の中から一つを選び取り、それを事実として実現する神のごとき力を持つものとして設定されなければならない。なぜその技術が魔術と呼ばれるかの所以がここ…

像の像

もしも魔術を像の逆写像のようなものとして設定しうると考えているなら、それは不可能である。なぜなら、ある事実の像はそれ自身また事実であって、サハーの一部であるからだ。像と原像は同じ世界の内部にあり、像だけがサハーの外にはみ出ているということ…

エネルギーとしての魔力設定

アニメ・漫画・ラノベ・ゲームなどのサブカルフィクション作品において、超自然的・非科学的便利能力の裏付けとして「魔法」というものがしばしば設定される。作品ごとに大なり小なりの差異はあるだろうが、おおむね魔法とは「魔力を源に術者の望んだ事態を…

空想の到達可能性

「可能性は無限である」という命題は、ある意味で正しく、ある意味で間違っていると俺は考える。無限にあると言及される対象としての可能性が、可能性の集合の要素であるならば、その要素数が無限であるということはありうる(真かどうかは知らないが、真で…