とつとつとしてろうとせず

ひまつぶしにどうぞ。

無意味という意味の拒絶は何を意味するのか

人の生は無意味である、との信仰に没することは容易い。俺のような人間にとって、それは快い救いのことばである。ところで、不可知主義によれば、生の無意味を断定的に説くことは生に対する外的な意味付けに他ならず、とどのつまり生の有意味を説くことと同義である。それは生の有意味説にすがる精神を虚無的と嫌忌した当初の態度にもとるものである。したがって、虚無主義の拒絶を貫徹するのであれば、生の無意味説もまた受け容れることはできない。

しかし、なぜ俺は虚無主義を拒絶しなければならないのか。不可知主義を完遂し、何者にも寄りかかるべからずと信じるべきなのだろうか。そうすることで、全体どんな出来合いの思想に没入しようとしているのか、それを知らなければならない。自分の不健全さの度合いを知ることが健全さを得るための第一歩だ。精神的衛生を保つことは、盲になることよりも望ましいことだと思う。たとえその過程で、あるいはその果てに、どのような狂気に陥ろうとも。