とつとつとしてろうとせず

ひまつぶしにどうぞ。

宗教と道徳の暴力的類似

史実を鑑みるまでもなく、宗教は暴力的である。宗教の主張が互いに矛盾することが可能な類のものであり、しかもそれを放棄することが生命財産を放棄することにも等しいものである限り、宗教対立の最終手段は紛争に訴える以外にありえない。だから、宗教を暴力的なものといって非難することは的を外した指摘であろう。人間の社会的な営みにおいて暴力が重要な役割を演じていることは周知の事実であり、宗教はその一例に過ぎないというだけの話なのだ。

そしてまた、道徳も暴力的である。してはいけないことをした子どもの頬を大人が打つのは、道徳の教示が基本的に言語で行うことができないからであり、その行いは一般的な意味で道徳的でさえある。もちろん、頬を打つだけが道徳者の暴力ではない。大声を出して反論を遮る、肩や手をつかんで無言でにらむ、求める返答のなされるまで無視をするなど、人間が持つ人間的ないし動物的脅迫手段のすべてが、子どもを道徳的に育てるための暴力として効果的に運用されている。それは正しい行為である。道徳自身が意図した社会を作り上げ、維持することを、道徳的に正しい行為というのだから。

宗教や道徳が暴力的であるということは、別段目新しい発見ではない。重要なことは、宗教家や道徳家が使う暴力が、彼らにとっての暴力に含まれないという事実を、冷静に認識しておくことだけである。その中におそらく自分や愛する人間たちも含まれるであろうということも。