とつとつとしてろうとせず

ひまつぶしにどうぞ。

生の無意味さ

人の生は無意味であるというとき、全体どんな種類の意味が無いとされているのか。それは人が自分自身に対して行う自己言及的な意味付けである。すなわち、人が「私の生の意味はこれこれである」と断言するとき、その発言は常に偽であるということだ。どれだけの確信と信念と熱情をもってその命題を発したところで、そんなものは無い。もちろん、無い意味をあると信じて生きる方がより良い生をもたらすだろうという見解は、おそらく正しい(それは多分、道徳的に良い生である)。それが生得的なものでも根源的なものでもないということ、つまり、それは決して外から与えられるものではなく、徹頭徹尾内側から自分自身で設定する便宜的なものである、ということを忘れないのであれば、その行為は健全でさえあると俺は考える。

しかし、本当に人の生を意味付けるものは何も無いのか。そのことを意味ということばで指示することが正しいのかはわからないが、人の生は何らかの形で向き付けられているように俺は思う。ただし、その内容を明示的に語ることはできない。語ってしまえば、その瞬間に上で無いといった意味での自己言及的な意味に変化するからである。とはいえ、それでもそれは無内容なわけではないと思う。人が暗黙裡に了解している規則があるように、人の生は全体的にどこか画一的な部分があるのではないか。それが生物学的に解釈できるのかはわからない。人の生が、生物としての生を最大化するように向き付けられているといったところで、なぜそうしているのかの意味はやはり無いからだ。それでも、それはあるのだろうと思う。