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とつとつとしてろうとせず

ひまつぶしにどうぞ。

選べただろうか

俺は中高生真っ盛りの頃の自分が何を考えていたのかほとんど思い出すことができない。あの頃の俺は未来の自分が今こうしてあるようになっているであろうと想像していただろうか。もちろん、今となってはそれはわからない。ただ、俺はよりよい自分になることができるよう努力を重ねるような情熱的な人間ではなかったし、今もそんな根性は持ち合わせていない。いつの頃からか、そういう風な人間になっていた。親の遺伝子だとか、育った環境だとか、種々のものの偶然的影響を受けてそうなったのだろう。俺は今、自分自身のことをそれなりに気に入っているし、不健全ではない程度に自分のことが好きだ、と俺自身は考えている。だから、こうなってしまった現状がそれほど悪いものではないと思っている。とはいえ、何か自分自身の特性や人格に対する反省を強く促されるような出来事に直面してしまうと、やはりふと後悔やら悔悟やらといった仕様のない想念が湧いて出てくることもある。そんなとき、昔の俺は今の俺とは違う人間になれるよう、人生の節々で選ぶことができたのだろうかなどと、益体もない考えに取り憑かれる。当然、可能性の話でいうなら、俺は選べたのだ。しかし、実際問題として、今の俺とは全く違う人間になれるように選んだかといわれると、おそらくそうではなかったろう。そんなことを決意するような場面において、俺はすでにそんなことを決意するような人間ではなかった。その時点で早くも手遅れだったのだ。人生の選択を行うために必要な知識や経験を得るまでの時間の中で、それまでに吸収してきたもろもろが、俺を今の俺のような人間にするひな形となり、俺の中で固定されてしまっていた。過去の俺は、将来のことで悩むお年頃を迎えるまでに、色々とよくないもの、というより、何かと厄介でなんともいえない品々を取り込んでしまっていたに違いない。とどのつまり、昔の俺は今の俺になるような人生を選ぶべくして選んできたのだ。俺の個性は決して最初から運命付けられていたものではない。しかし、いくつかの偶然的な経験が、その後の流れをある程度向き付けたことは確かだろう。人の可能性は時間の経過に応じて指数関数的に減じていく。その初期値も無限ではなく有界である。可能性が無限とは不定であるということの言い換えだからだ。したがって、一度向き付けられた俺の特質はその後ずるずると決定付けられていき、ついにはそれが宿命であったかのように思われる状態にまで固定される。過去に偶然的だったものは、いまや必然的ですらある。選べたはずの選択肢は、その時点で選ぶ価値のないものとして俺の目に映っていたのである。
結論。手持ちのカードでやりくりするしかないのだから、早く次の山札をめくるべきだ、ということ。