とつとつとしてろうとせず

ひまつぶしにどうぞ。

つくづく考えさせられる

問題の核は、その最も肝心なはずの、私自身が感じているこれが、言語的有意味性にまったく関与しないことになる、という点にある。
永井均、『哲学の密かな闘い』、ぷねうま舎、二〇一三年、三四〇頁。赤字斜体は原文では傍点)

この人の本を読んでいるといつも本当に不思議な気持ちになる。俺はこの人の本を読むことでこの人のいうところの独我論について知った。それはつまり、俺だけが知ることができて、俺以外の他人には理解できるはずがないこの問題について、永井均という他人は俺よりもはるかに深い理解を得ている、ということである。そんなことはあり得ない!……ということもこの人を本を読んで学んだのだ。何ということだろう、俺ではない人間が俺について俺よりも詳しいだなんて! この人が独我論に関する「えもいわれぬ哲学的洞察」を語るとき、その内容にこれは関与していない。そんなことが可能なのか? 不可能に決まっている。なぜならこれを持っているのは俺だけなのだから。意識のないゾンビが意識について語る、現実に存在していない人間が現実に存在していると主張する—こんなにおかしな話が他にあるだろうか。しかし、このことは俺にもはね返る。俺が語るこれの内容に、これはまったく関係して来ないのだ。もし俺がいまの俺ではなく別の人間になったとしても、彼はこれについて雄弁に語るのだ。これがなくてもこれについて語ることができる! このことこそ、これが言語で語りえないということの意味だろう。もちろん、このことさえもこの人の本から教わったことなのだが。ああ、頭がこんがらがる。何で世界はこんなことになっているのやら。

哲学の密かな闘い

哲学の密かな闘い