とつとつとしてろうとせず

ひまつぶしにどうぞ。

本当の自分

「自分」という語を修飾する時の「本当の」という語の意味は、「事実である」「真である」というものではない。それは「嘘ではない」「偽物ではない」という意味の価値判断を伴う語であり、換言すれば、本当ではない自分と異なる「快い」「悦ばしい」「満たされた」状態を指す。興味深いのは、それが真偽の是非を問う文脈では異なる意味を持つ「真である」という語と「よい」という語は、価値判断の文脈においてはほとんど相互に交換可能である、ということである。厳密にいうなら、価値判断の文脈においては、一方から他方を導くことができるように思われる、ということだ。
一般に、「真である」と「よい」は同義語ではないので、それらを入れ替えると違う意味の文になってしまう(「『長崎は今日も雨だ』は真である」と「『長崎は今日も雨だ』はよい」は同じ意味ではない)。ところが、価値判断的文脈では、一方の文から他方の文を理由節によって導くことができる(「これが本当の自分だ」。だから、「これがよい自分だ」)。ここには、隠れた前提として「真であることはよい」、あるいは、「よいことは真である」という第三の価値判断が含まれている。おそらく、多くの言語運用の誤りがこの命題に基づいており、引いては思考の混乱を招いていると思われる。