とつとつとしてろうとせず

ひまつぶしにどうぞ。

見守る神

自らが従うべきと信じる規範を権威的な存在者の意向として対象化することは、都合の悪いことをその存在者のせいにできてしまう余地があるという点で不健全ではなかろうか。ならば、心の中の法廷で審判を下す裁定者としての「見守る神」もまた、実は心の外にあるルールブックと何ら変わりないただの紙切れでしかないのではないか。信仰の問題を掘り進めた先にある岩盤の下は、己の意志だけで満たされているべきである、と俺は信じる。俺はあることをなすべきと判じ、またあることをなさざるべきだと断ずる。その内容はまったく偶然的である。しかし、その判断の根拠の一切は、俺自身が「そうすべきだからそうする」「そうしたいからそうする」「(考えるまでもなく)そうする」ということに尽きるべきなのである。見守る神は存在していてもよい。それが何の報告も助言もせず、見守っているという事実の痕跡を塵一つ残さず、同時に、見守られているという観念を持った人間が、そのことによって安心したり満足したりしないというのであれば。