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とつとつとしてろうとせず

ひまつぶしにどうぞ。

空想の到達可能性

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「可能性は無限である」という命題は、ある意味で正しく、ある意味で間違っていると俺は考える。無限にあると言及される対象としての可能性が、可能性の集合の要素であるならば、その要素数が無限であるということはありうる(真かどうかは知らないが、真であることはありうる)。しかし、「可能性の集合の集合」の要素数が無限でありうるかと考えると、俺にはそれはありえないことのように思える(特にここでいう可能性とは事態の可能性であり、「起こりうること」といい換えてもよい)。可能性の集合、すなわち可能性の全体は唯一であり(なぜならそれは全体だから)、それは世界を限界づけている。もっというなら、世界の在り様それ自体に可能性の全体が示されており、人はその外側に出られない。可能性の数は無限だが、その内容の幅には限界がある、ということだ。これと同じことが空想の到達可能性にもいえるのではないか。
人が空想によって到達しうる世界には限界がある(それは思考の限界と同義かもしれない)。ありていにいって、人は言語によって描像不可能な内容の世界に到達できない。フィクションであればなおのことだ。フィクションの中の登場人物はすべて人間的存在者でなければならない。彼らは人に理解できることばを話し、人に理解できる行動を取り、人に理解できる感情を表し、人に理解できる思考を示さなければならない。千年を生きる巨木が主人公なら、彼はその物語が公開・出版・販売される地域における言語によって人間と対話しうる存在である。それはその空想が物語として成立するための条件であり、それが物語として成立しているなら必然的に満たしている性質である。当然だが、人間的存在者の外見はホモ・サピエンスのそれと全く異なるものであってかまわない。重要なことは、それが意思を持ち、人と意思疎通を図ることが原理的に可能な存在であるという一点に尽きる。
このことはまた、フィクションの舞台にもいえる。物語の舞台は人間的存在者に対して行う描写が有意味な世界でなければならない。動作に対する基本語彙、形状に対する基本語彙を使用するなら、それらが有意味であるような世界が物語の舞台でなければならない。物が「落ちる」なら、そこには重力が働いていなければならず、物が「壊れる」なら、そこには原子=物体を構成する最小単位が存在しなければならない。言語の語彙は物理法則と不可分である。異世界の人間と話が通じるのなら、ある程度以上、その世界と物理法則が一致するのでなければならない(デイヴィドソン的発想の応用か?)。
俺が「はたらく魔王さま!」というラノベが好きな理由はおそらくこれなのだ。すなわち、人が物語の舞台として用意できるものは地球と似通った時空に限定され、物語の登場人物として用意できるものは人間と似通った生物をおいて他にない、という俺の考え(あるいは常識?)は、「はた魔」の「悪魔も天使も人間が存在の基体になっている」という設定(であると俺が勝手に考えているだけ?)にどこか通じるものがあるのではないかと思い、そこに親近感を覚えているのだろう。

……つまり何がいいたかったというと、この本面白いから読んでみてね、という宣伝なのであった。なぜアニメでアラス・ラムス登場しなかったし(2期に期待か?)。

はたらく魔王さま! (9) (電撃文庫)

はたらく魔王さま! (9) (電撃文庫)