とつとつとしてろうとせず

ひまつぶしにどうぞ。

獣としての神

獣としての神は悪である。すなわち、それは人の道理から外れた存在であり、その意図に対してどのような解釈を行おうともそれは妥当ではない。獣が人を殺したとしても、そこに情念はない。恨みや憎しみによって殺すのでも、怒りや悲しみによって殺すのでもない。それは神という巨大な運動を原因として生じた単なる結果に過ぎない。だから、獣はまた人を救い、守りもする。当然、それは愛や親しみによらず、打算や取引によるのでもない。ゆえに獣に罪は適用されない。獣は人の設定したいかなる法にも従っていないからである。人と獣の理は完全に独立しており、ただ行動の結果を通してのみ交錯しうる。獣の運行を予測することはできず、仮に予測できたとしても、その意思を推し量ることは原理的に不可能である。人はただ、獣に押し潰され、引き千切られ、結局のところ無視される。蟻にとっての人の存在と人にとっての獣の存在は似通っているだろう。人は蟻を気まぐれで殺すが、育て慈しむこともある。しかし、蟻には人の行動が気まぐれによるのか慈しみによるのかはわからない。それと同じことが人と獣の関係にもいえる。獣にはいかなる必然性もなく、あるのは偶然性のみである。獣と遭遇した人は、運が良ければ生き残り、悪ければ塵芥として払いのけられて死ぬ。