とつとつとしてろうとせず

ひまつぶしにどうぞ。

無宗教

宗教と宗教文化を区別するという視点は確かに大事だと思った。日本に生き、儒教神道や仏教に由来する文化を持っているということだけでは、人が儒教神道や仏教に帰依しているということにはならないのだ。墓参も参拝も読経もすでに生活の一部であり、思想や価値観もそれらに大いに影響されているだろう。それでも、それらの宗教の教徒であるとは必ずしもいえない。少なくとも、今のところ俺はいかなる教義にも帰依していない。南無から始まる何事も唱えるつもりはない。それらに学ぶことは大いにあろう。俺の思考がどのようにして形成されたかというレポートを作成するときには、参考文献リストを作ってそこに掲載してもいい。それでも、それらの宗教が提唱する教義に共感し、協調し、その目的を共有するつもりはさらさらない。宗教を持たなくても人は生きていけるかどうかまではわからないが、ある特定の宗教団体に所属しなければ生きていけないという主張は明らかに事実ではない。檀家を数え上げて信徒数とするというのはむしろ宗教団体側が拒否すべき計上方法ではないか? 自覚もないまま「え~と、確かばあちゃん家で『南無大師遍照金剛』っていってたから真言宗じゃなかったかなぁ」という輩を真言宗は信徒にカウントしていいのか? 「聖☆おにいさん」を読んだだけでキリスト教徒と仏教徒のハイブリッドになるわけでもないだろう。だからやはり、自覚のない日本人はすべて無宗教といっていいのだ。もちろん、自覚のある者は自身の信仰の拠り所を紹介すればよい。なぜ自覚を大事にするかというと、とどのつまり宗教というのは個人のものであり、その意志を離れてその人の宗教を決めることなどできないからだ。