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とつとつとしてろうとせず

ひまつぶしにどうぞ。

甘露を零す

気まぐれに『論考』を読み返してみると、目を引かれる記述があった。

6.4312
人間の魂の時間的な不死性、つまり魂が死後も生き続けること、もちろんそんな保証はまったくない。しかしそれ以上に、たとえそれが保証されたとしても、その想定は期待されている役目をまったく果たさないのである。いったい、私が永遠に生き続けたとして、それで謎が解けるとでもいうのだろうか。その永遠の生もまた、現在の生と何ひとつ変わらず謎に満ちたものではないのか。時間と空間のうちにある生の謎の解決は、時間と空間のにある。
(ここで解かれるべきものは自然科学の問題ではない。)

ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン著、野矢茂樹訳、『論理哲学論考』、岩波文庫、2003、pp.146-147 太字は引用元では傍点

ここでいわれている「謎」はおそらく、通常人が「謎」だと感じているものとは異なっている。後者は結局、「人は死後どうなるのか」という問いであって、それは魂の不死の保証によって解消される。つまり、「魂が不死である以上、死後というものは存在しない。死というものがないのだから、死にまつわる問題も存在しない」といった具合に。しかし明らかに、上述の指摘通り、不死によって後者の問は消滅しても、前者の問は消滅しえない。それは生そのものにまつわる謎だからだ。とはいえ、それを謎に感じている人は圧倒的に少ない。不死の保証は大多数の人間にとって福音である。もちろん、生の謎に苦しむ少数の人間には禍音でしかないが(いや、この問題を知っている者は、それが時空の外にある解決しえない問題であることも知っているがゆえに、それについて思い悩むこともないのかもしれない。ただ、それについて思い悩まないような人間がそれに気づきうるかどうかは怪しいところだ)。