とつとつとしてろうとせず

ひまつぶしにどうぞ。

科学は宗教か

科学は宗教である、という主張は実に多くの内容を含んでいると思われるため、一概にその是非を問うことは難しいだろう。注意すべきなのは、科学じみた宗教と科学を混同することによってそう主張する場合である。つまり、科学的思考によって導き出される結論と同種の結論を、最初から断見的に、結論ありきで盲目的に主張するような団体が、自らを宗教といいはるような場合、それは明らかに科学ではない。一緒にしてもらっては困るという意味で、その宗教と科学は同じものではない。科学とは方法論であって、結論ではない。無神論者が、唯物論者が、悲観論者が自己の信じる価値観を武装するために科学を引き合いに出すのは、科学にとってははた迷惑な話である。科学者は常に注意深く発言する。彼らの大衆に対する口癖はこうだ、「そこまではいっていない」。科学信奉者はセンセーショナルな結論を引き出したがるが、真の科学信奉者、すなわち誠実な科学者は、センセーショナルな結果にこそ厳しい懐疑の目を向け、何度も何度も検証を行う。その上で事実として認められるがゆえこそ、それはセンセーションとなるのだ。それを忘れてはならない。科学の結論を貪るだけの無批判な愚昧は悪質な宗教にはまっているといえるだろうが、それで彼が真摯な科学者の一員であるということにはならない。絶対にならない。
俺は科学を宗教だとは思わないし、宗教として扱うべきではないとも考えている。ただ、科学的な営みを続ける中で、人が信じているもの内実が明らかになることがあるため、その意味で科学は宗教、というよりは信仰の問題と無関係ではないと思う。すなわち、人が信じている通り事実であるもの、信じてはいないが事実であるもの、信じているが事実ではないもの、信じていないし事実でもないもの、信じる信じないに関わらず事実として確かめることができないものなどを数え上げ、整理し、まとめることは、人の信仰の有り様を記述し、それがいかにあるべきかを論じる上で役立つ資料となる。それを作る作業は科学的な方法論に基づく以外にありえない。人が事実を合理的に取り扱う手法をこそ科学と呼ぶのであり、信仰引いては宗教の問題もまた事実と無関係ではいられない。
確かに科学は信じるべきものである。なぜなら、それは日常人が用いる思考法・推理法を純化・厳密化したものであり、それ以外のやり方は本来的にありえないからである。人間にはそれしかない。ゆえにまた、それは常に検証され、監視され、批判され続けながらこれまで生き延びてきた方法論でもある。信頼性がすこぶる高いという意味で、それを信じることは合理的であり、それを信じないというのは何か個人的な感情を論拠としていると疑われても仕方ない。