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とつとつとしてろうとせず

ひまつぶしにどうぞ。

呼び名と力

神を蔑ろにした者を神が殺すのなら、その光景を何というか? 敬虔な信徒はそれを裁きと、あるいは罰と呼ぶかもしれない。偉大なる主に逆らったこと、従うべき律法に背いたこと、定められた規則に違反し、それを定め規則を創り出した者に背反したこと、それらの事実をもって神の行為は正当化されるのかもしれない。そうではない。それは単に、強者が弱者を殺す様子、自然界にあまねく観察される暴力による淘汰に他ならない。信徒にはそうは見えないだろう。彼らがかけている眼鏡の色と、俺がかけている眼鏡の色は似ても似つかないのだから、それは仕方のないことだ。だから俺は俺の視界に映る光景をこうして描写する。神が不信心者を殺す光景は、裁断でも懲罰でもなく、単なる殺害と呼ぶのである。神を蔑ろにすることは、信徒にとっては罪であるが、そうでない者には罪ではなく悪である。神の律法から外れているという意味で、不信心者は罪人ではなく、悪人として殺される。
もしも神の力というものがあるとすれば、それは本来関係者の合意の下に成立するはずの契約を一方的に結ぶ力、我々の与り知らぬ時空において、契約がすでに締結し成立していたのだという既成事実を作り上げる力をいうのであろう。神の力とは過去を新造する力なのだ。何が恐ろしいかというと、これはあくまで契約であり、合意の下に為された適法行為であると認識させている点だ。俺が神に背いている状態は、俺が契約の不履行・義務の不遂行をしていることによって実現しているのであって、決して神が約束を破っているわけではない。俺が身に覚えがないといいはって契約を無視しようが、それはあるはずのない遠い過去において行われた真っ当な手続きの数々を俺が単に忘却してしまっているのが悪いだけで、そのあったはずの事実を向こうが握っている(と強く主張できる)限り、こちらとしては弱い立場に立たされ続けるのだ。多分、一夜の情事の責任を取れと執拗に迫ってくる、酔った勢いで一度だけ抱いた女のようなものかもしれない。女を冷たくあしらっても、周囲の同情は女のものであって、白眼視を受けるのはあくまで俺だ。これは本当にうまくできている。女には逆らえないのと同じような理由で、神にも逆らえないのだろう。だから俺は殺されるしかない。圧倒的な力の前に、為す術もなく屠殺されるより他にない。その光景はいやにリアルだ。ありうる末路として、ありえたかもしれない誰かの最期として、いつか正夢を見るかもな。