とつとつとしてろうとせず

ひまつぶしにどうぞ。

何が常軌を逸しているのかについて

いと高きもの、貴きもの、賢く知に富み、大いに力のあるものの内最も優れたものが、我ら子羊のごとき人の子に対して、聖なるその身を差し出し、咎を背負い、血と涙を流し、我らに課せられた罪を贖い、身を持ってそれを浄めた――と信徒はいう。あまりに壮絶なその救いの手法を前にして、常識にすがる賢しらな愚者はそれを受け入れられないだろうが、差し伸べられた救いの手を拒絶することがいかに常軌を逸しているかと、信徒たちはそれを熱く語ってやまない。そうではない。常軌を逸しているものとは、そのような行為を受けたときに感謝と歓喜の念に打ち震えるという、その感情をいうのである。そのような物語を受け入れ、信奉し、依拠するようなことこそ、最も唾棄すべき事態である。他人がどうかはどうでもいい。少なくとも、俺は俺にそんなことは許さない。
もしも信徒が俺を狂人と指弾するならそれもよかろう。傲岸不遜の逆徒、忘恩厚顔の恥知らずと罵るのも大いに結構。俺が探しているものは、お前ら信徒のような子羊たちを救う教えではない。俺のような狂人を救う教え、どころか、より一層の発狂を促すような、鉄のごとき重く揺るがぬ事実を、俺は欲している。常軌を逸しているのは俺の頭だというのなら、俺の頭が目指すべき先は、お前らのような信徒が乗る軌道とは異なった、おそらく荒漠とした殺風景などこかに通じている、曲がりくねった軌道なのだろう。