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とつとつとしてろうとせず

ひまつぶしにどうぞ。

ラベリング

人間社会の問題は宗教的対象を持ち出すことなく解決しうるという立場を「世俗的ヒューマニズム」と呼ぶそうだ。人は神の力によってではなく、理性と意志の力によって道徳的であることができるする主張らしい。いかにも俺が好きそうな言説だ。では俺は世俗的ヒューマニストなのか? そうではないだろう。少なくとも、自分からそのように名乗り出ることは控えるべきだ。世俗的ヒューマニズムの主張に肯うところが多くあるからといって、その主義の体現者になることはない。ただその内容を学び、どのような考え方なのかを知ることができればそれで十分だ。自分の思想をラベリングすることはあまり誉められたことではない。俺の思想がどのような成分から構成されているかを分析することは俺にとって必要だが、何か特定の主義の体現者であるとの自覚は俺にとって不要である。
俺は他人を教化したいのではない。いや、その欲望を否定することは事実の拒否でしかないだろう。正しくは、他人を自分と同様の思想を持つように教化したいという願望の存在は認めるが、それを実際に行うことは慎むべきだと思っている、あるいは思おうとしている。俺がやりたいことは、他人の価値観の主張を批判的に吟味することを通して、自分自身の価値観の主張がどのようなものであるかを精査することだ。他人という鏡を使って自分の姿を確かめたいのである。そのように目的を設定するのであれば、自分の思想がどのように世間で分類されるかを知ることは有意義であっても、その分類に従って自分を規定し、行動することには意味がないし、有害でさえある。ヒーローのバッジをもらって喜ぶガキでもあるまいし、そのようなミーハーな言動はやめるべきだ。犀のように独り歩め。静かに穏やかに、独りで歩め。俺は先導者にも扇動者にもなれないし、なってはならない。
ところで、世俗的ヒューマニズムの定義からすると、釈尊もまた世俗的ヒューマニストということになるのか? 人生苦の解決に超越的存在者を必要としなかったという意味において、原始仏教はヒューマニズムの一種であるように思われるのだが。