とつとつとしてろうとせず

ひまつぶしにどうぞ。

信じるものを選ぶ

思想と信仰が原理的に選択可能なものである以上、そこに絶対はなく、また真理もない。絶対の真理とは、その内実に関わらず、選択不可能なものだからである。それは必然的に同定されるものであって、個人の嗜好や性状によって信頼されたり打ち捨てられたりするものではない。偶然性に左右され、全称的な表現が当てはまらないようなものは真理ではないのである。したがって、思想と信仰とは、選択し、決意するものである。俺は勘違いをしていた。人間のあるべき姿を画定し、その高低優劣を判定し、どのように生きるべきかを規定する、絶対唯一の指針などないのだから(すなわち、価値の領域において真理は存在しない。たとえそれがどんなに美しく素晴しく道徳的であったとしても、それは真理ではない)、自分にとってよいと感じられる判断は、それが十分な批判的吟味を経てなおそうであるならば、己の価値基準の判例として採用してよいのである。それ以外に思想と信仰を形作るプロセスは存在しない。自分にとって好ましい主張を肯定することは、そのことに自覚的であったとしても、後ろ暗いことではない。でもやっぱり、それでいいのかとも思ってしまうが(つまりそれは、価値の領域において真理が存在することを期待する、ということだろう。もしかしたらそれは、ありもしない虚像をあると思い込むニヒリスティックな態度なのかもしれない)。