とつとつとしてろうとせず

ひまつぶしにどうぞ。

思想の根拠としての宗教選択

自らの思想を正当化し、その後ろ盾とするためだけに、特定の宗教を礼賛し、その庇護を求めることに、何か特別な意味はあるのだろうか。彼はその宗教の存在とは独立に、自らの価値観を把握し、その思想を正しいものだと信じている。それでは不十分なのか? それをさらに社会的にあるいは理論的に補強するために、たまたま自分の考えと親和性のある宗教を引き合いに出して、それに対して好意的な解釈を与える代わりに、自分の思想の妥当性を示す踏み台としてその教義を援用することは、とどのつまり蛇足ではないのか。「俺が正しいと思ったからそう動く」――人の行動に対してこれ以上何か付け加えるべきことがあるのか? 不足しているものがあるのだとしても、少なくともそれは自分の思考に最も類似する宗教のリストではないように俺には思える。それは権威に訴える論証と同様、間違った判断なのではなかろうか。というよりそれは、余計な手間なのではないか。
ヒンドゥー教がカースト制度を肯定するから仏教に改宗するというのは不連続な論旨である。カースト制度の否定が原点にあるなら、ヒンドゥー教の棄教はその帰結であっても、仏教への改宗はそれとは別のプロセスであろう。もしそれだけが目的ならば、仏教に帰依する必要性はどこにあるというのだろう。その矢印は双方向ではない。元々仏教徒であった人がカーストを否定することは教義から導かれる自然な結論かもしれないが、その逆は成り立たないはずだ。カースト制度を撤廃する運動を効果的なものにするために仏教を利用したのだといわれれば一応の納得もできるが、それならば、それは仏教でなくても、もっといえば、宗教でなくてもよかったのではないか。所望の結論を得るために何かに帰依するというのはおかしな行為に思える。その結論を持たない人がそれを探すための灯台として期待が持てたから帰依するというのなら理解できるからだ。何にせよ、彼の思考は俺にはよくわからない(もちろんその運動そのものは肯定する。俺がいいたいのは、それが素晴らしい行為なのだとしても、それに熱情的な実感を持って協力することはできないということだ。協力するとしても、それは社会の成員に課せられた冷たい義務としてであって、俺自身の信条からそうするのではない)。