とつとつとしてろうとせず

ひまつぶしにどうぞ。

礎を異にするものが折り重なってある

宗教と道徳は独立している。邪教の存在がその証左である。つまり、道徳的でない宗教の存在は、道徳的であることが宗教的であることと同義ではないということを意味している。邪教徒は自らの行いが道徳的でないことを自覚すらしているだろう。それでも、その行いは彼らにとって宗教的な儀式の一部なのだ。彼らは神とその律法に従っているのであって、道徳に従っているのではない。宗教者が道徳的であることを推奨するのは、彼らの教義の内容と道徳の内容に偶然的な重複があるからに他ならない。神が不道徳を為せといえば、篤信家は妊婦の腹を引き裂いて嬰兒を縊るだろう。彼は吐き気を催すほどの不道徳者だが、なおも宗教者ではある。信徒たちは口を揃えてこういうかも知れない。完全なる御方がそのようなことをお命じになるはずがないと。彼らの次の仕事は完全性の概念に道徳性がいかに包含されるかを証明することだろう(そしてそのような試みはすでに数多くなされているに違いない)。しかし、それは彼らが彼らの主に安心して従ってもいいのだと思える根拠ではあっても、神に従うこと、すなわち、宗教的であろうとすることそのものの正当性を証するものではない(主が道徳的であることで安心できるということもまた、道徳的な判断基準が独立していることを示唆している)。それは道徳が根拠付けを担う事項でもない。だからこそ、宗教と道徳は独立なのだ。神の救済の対象は単なる道徳家ではない。道徳的であることが救済者のリストに名前を追加される条件ではなく、神を信じることがその前提である。罪人や悪人であっても救済されうるのは、それが本質的な問題ではないからだ。神を信じないと断言する類まれなる慈善家はそのことによってのみ地獄に落とされる。しかし、人生の九分九厘を弱者の血で染め上げ、数え切れないほどの死体を踏み越えてきた虐殺者であっても、臨終において神を信じることで天国の門を叩くことのできる可能性が生じる。彼らにとって、重要性の度合いはともかく、道徳的であるかどうかは最も優先順位の高い問題にはなりえない。