とつとつとしてろうとせず

ひまつぶしにどうぞ。

わたし、離魂します!

釈尊は霊魂の存在に対して「無記」の態度を取った。すなわち、霊魂が存在するかどうかについて肯定的な意見も否定的な意見もあえて述べない、と表明した。このことの揚げ足を取って、「お釈迦さまは霊魂があるともないともいわなかったそうだが、その実霊魂があると思っていたのではないか?」と恣意的な解釈を行う者がいる。彼は完全に論点をすり替えている。文字通り、釈尊の核心は霊魂があるかどうかではない。霊魂のあるなしはその宗教にとって問題にすらなりえないといったのである。これは霊魂の存在を認めたり認めなかったりするよりも強い主張である。すなわち、霊魂があるという立場もないという立場も、釈尊にとっては等しく価値がない。そんなことはどうでもいいのだ。そのような問題に取り合うための手間とかかずらうための時間はまったくの無駄であり、その種の浪費こそ害悪であるといったのである。釈尊が霊魂の存在を否定しなかったことを論い、あたかも逆に霊魂の存在を肯定していたかのように自らの言説を修飾する者は、釈尊を引き合いに出すことで彼に対する敬意を表現しているのでは決してなく、釈尊もそういったのだからこの意見を信じろと権威主義的な思想の押し売りを行うための道具にしているに過ぎない。真に善逝を敬い尊ぶものは、霊魂のあるなしで気を揉むのはやめろとという、釈尊の真意の方をこそ伝えようとするはずだからだ。何が宗教にとって真に取り組むべき問題なのかを論ずる上で「無記」の話に言及するのは正しい引用だが、霊魂はあるかないかについて、論者の唱える方の意見に威力を付け加えるためだけに釈尊の名前と「無記」を持ち出す者は引用の仕方を誤っている。それを故意に行っているとすれば、彼は誠実な論者ではありえない。