とつとつとしてろうとせず

ひまつぶしにどうぞ。

荒れ野のゆりかご

たとえばすべてが壊されて、まっさら平らな更地になって、見渡すかぎりの荒れ野になれば、そこには何を建てればよいか。おそろしく堅固な城壁も、青空に突き刺さる尖塔も、綺羅びやかな伽藍の堂も、その硬さのゆえに、その高さのゆえに、その眩しさのゆえに、もはや毀つべき虚ろな組家ではないのか。いや、違う。壊されたのは、無効にされたのは、失われたのは、建てるべきと毀つべきとをはっきりと分ける、疑わざるべき規律そのものだ。ニヒリストは新しい価値観を提案しない。既存の価値観を否定する、その旗印となる新たな価値観をこそ、ニヒリストは否定する。では誰が、この荒野で生きるのか? この砂漠を思うがままに闊歩するのは誰なのか? いや、そもそもここは荒野なのか、砂漠なのか。瑞々しさを損ない、ひび割れの走る飢えた大地だと、そう信じているのはお前一人ではないのか? ユニバースに中心が存在しないなら、マルチバースにも原点は存在しない。特別さを識別するための対称性が破れていないなら、お前の嘆きが尤もなものであると、どうして明かせるのだろう。人々を絶望に叩き落とせる秘密を握っていると悦に入っている妄想家は滑稽だ。その滑稽さは悲劇であって、決して笑えるものではない。しかし、憐れなキリギリスにできることといえば、家に帰って籠の中の青い鳥をさらに蒼く塗り潰すことぐらいだろう。自分が青色に染めたのだという自負だけが、お菓子の缶々の底に残った最後の宝物なわけだ。あー、悲しい。