とつとつとしてろうとせず

ひまつぶしにどうぞ。

像の像

もしも魔術を像の逆写像のようなものとして設定しうると考えているなら、それは不可能である。なぜなら、ある事実の像はそれ自身また事実であって、サハーの一部であるからだ。像と原像は同じ世界の内部にあり、像だけがサハーの外にはみ出ているということはありえない。したがって、魔術とは事実と像との間の関係を扱うものではなく、事実と事実の間の関係性に関与するものでなければならない(より重要なことは、魔術もその事実の一部であることだ)。
だからもし、この描像を設定として保持したいというのであれば、何か別に外の世界を想定しなければならない。当然、それはこの現実ということになるだろう。像の像は、われわれによって作られるわれわれの世界の事実である。サハーにおける事実と像の関係は、実は空虚な対応であり、真に対応関係にあるものとは、サハーの事実と像の像である――という設定は、もしかしたらおもしろいかもしれない。すなわち、サハーの「スクリプト」を「読む」存在とは、われわれである。サハーを創造するロゴスとはわれわれの言語であり、神とはつまり、われわれなのである
しかし、このような事実をいかにしてサハーの住人が知りうるのか? 否、知りえないのでなければならない。メタ発言をするキャラクターが結局はライターの掌から逃れられていないように、表面的にはサハーと現実の真実を知っているような素振りをするキャラがいたとしても、その実彼は何も知ってはいないし、何も語ってはいないのである。
ところで、これは結局よくある「世界は本である」という設定の類似品なのではないか? 確かにそうだ。しかし、これだけはいえるだろう。この設定は、「世界は本である」という事実を作品世界にとっての所与であるといって思考停止をせずに、「世界が本であるとはどういうことか?」という問いを立て、その意味を掘り下げるものであると。自らの内容にかなりの程度自覚的であるというこの特徴が、この設定において最も新規性のある部分なのではないかと思う。