とつとつとしてろうとせず

ひまつぶしにどうぞ。

自覚的な濫用

『知の欺瞞』を初めて読んだのは確か四年ほど前のことだったと思う。これはソーカル事件の顛末とその後巻き起こった論争に対する当事者たちの主張をまとめたもので、とてもおもしろい本である(文庫版が出ていたのをいま知った。今度買いに行こう)。私見としては、本書の主張は徹頭徹尾首尾一貫していて、しかも極めて単純なものである。つまり、「おめーらいい加減何いってっかわかんねーからよ、もっとわかりやすくしゃべれや。科学者だろ?」ということに尽きる(いわゆる人文科学は自然科学より劣っているとか、実証的な基礎付けにかけるだとか、そういうことをいっているのではない。これは本文中で著者らが何度も注意している)。科学に携わる者が、科学的な命題について議論したいのであれば、専門用語の濫用は避けるべきだというのは、非常に常識的な意見で、反論の余地などない。科学をやる人間は、科学を使って何かを「わかる」ことが目的なのであって、「わかったつもりになる」ことは最も忌避すべきことだからだ。
さてしかし、科学を離れた、文学的な言葉遊びの領域においてであれば、濫用もまた一興ではないだろうか。数学や物理学のジャーゴンがいかにも「カッコイイ」ものに感じられる――という感覚は意外と多くの人が抱いたことのあるものではないかと思う。だって「カラビ・ヤウ多様体」だの「シュヴァルツシルト面」だの聞かされれば厨二心が疼かないですか? 「確定記述」とか「真理条件的意味論」とか「貫世界的同一性」とかそれっぽいじゃないですか。もちろん、これらはきちんとした文脈の下では明確な意味を持つ「ただの専門用語」に過ぎず、関係者にしてみれば「誤読」の余地などほとんどない。それでも個人的には、自然科学に由来する専門用語や概念を自覚的に濫用することによって、極めて「突飛な」文学的作品がいつの日か生まれるのではないかと、密かに期待していたりするのだが。
……戯言だけどね。

「知」の欺瞞――ポストモダン思想における科学の濫用 (岩波現代文庫)

「知」の欺瞞――ポストモダン思想における科学の濫用 (岩波現代文庫)