とつとつとしてろうとせず

ひまつぶしにどうぞ。

魔の術

より正確を期すなら、「魔術」や「魔力」といった用語の使用は好ましくはない。なぜなら、サハーにおけるそれらは「聖−邪」や「神−魔」、「法−混沌」といった対立空間の内部にはないからだ。それはサハーに本来的に具わっているもの、というより、サハーの運動そのものであって、つまりはそれ自体として善くも悪くもない自然現象に過ぎない。その部分を勘違いした人間による命名であるという設定にするなら話は別だが、少なくとも有識者たちはたとえば単に「術」や「力」というだけだろう。とはいえ、勘違いの方が広く普及しているというのは物語的なミスリードがしやすいという利点はあるだろう。
もちろん、わかりやすさでいえば「魔術」や「魔力」に勝るものはない。その実質、つまり、作中における機能としてそれを分類するのであれば、それらは他作品における対応物と大きな差異はないからだ。構造的・機能的オリジナリティというのは難しい。換骨奪胎や肉付けなどのことばの用法には、要素の組み換えや素材の組み合わせによって得られる最終的な内容が、なおも一般的な作品の許容範囲の内側に収まり、普遍的な形式を踏襲していなければならないという暗黙の規定が含まれている。猫や犬の骨を使って想像上のありそうな生き物の骨格標本を作ることは生物の範疇にあるという基準を満たせば許されるが、そこから例えば楽器や武器を作ることなどは許されない。構造的・機能的に新規なものを作るということは、このような普遍性の意図的な破壊につながりやすい。それでも評価されるものを作る人は、芸術家レベルのセンスを持っているのだろう。