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とつとつとしてろうとせず

ひまつぶしにどうぞ。

文法的一致

超越者の超自然的介入に奇跡と神秘を見るキリスト教的自然観ではなく、かくある世界のありのままの在り様そのものに奇跡と神秘を感じるスピノザ的自然観こそ現代に必要な視点であろう。このような感覚はその実キリスト教徒でも持ち合わせている。つまり、すべてをお造りになられた主のデザインは完全なので、超自然的介入という「作り直し」や「修正作業」をするはずがない。それは自らの思い違いや想定不足を露呈する行為であり、創造物の変化を含めてもろもろを設計した主は作った後の世界に介入する必要はないのだ。このオプティミズムと意志も目的もなくただ己が内的原因に従って自己展開する神の活動は図らずも一致する。つまり、オプティミストは人間には計り知れない主の基準にしたがって善悪の混沌とした現世をそのまま「良し」とする。スピノザ派の人間は神にはそもそも善も悪もなく、一切合切はその必然性から導かれ別様ではありえなかったのだから、その必然性に身を任せることこそ「良し」とする。両者はかくも見事に文法的な一致を示す。そして、スピノザ派と科学者の類似性を考えれば、科学者とキリスト教徒もまた一致する。だからこそあのように多くのキリスト教徒が科学者でもあるのだろう。置いて行かれているのは残念な感性の持ち主であろう、老いた司祭たちだけである。
ところで自己展開する自然というのは極めて仏教的な概念ではなかろうか? スピノザに共鳴する俺の感性は仏教への共感でもあるのだろう。ああ、何を旗印にすればいいかがわかりきっているというのは安心できるいいことだ。すなわち、何も旗印にすべきではないということ、絶えず思考し、何ものにも心を預けず、透徹して物事を眺めること。真理を諦めない者だけが真理を諦める。甘露とはだから、やはり真理であるのだろう。