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とつとつとしてろうとせず

ひまつぶしにどうぞ。

つまらないものたちの台頭

雑記

何かをおもしろい、あるいはつまらないと感じるときの基準は千差万別、人それぞれであるとよくいわれる。確かに人の好みは本当に多種多様で、ある人にとって好きで好きでたまらないものが、別の人にとっては全く興味の持てないつまらないものにしか思えない、というようなことは珍しくもない話だ。極端なことをいえば、他人からすれば吐き気すら催しかねない趣味嗜好に快楽を見出している人だって現に存在している。だから基本的に、自分が好きなコンテンツに対して、他人が常に肯定的な評価をくれるとは限らない、というのはもはや常識ですらある。同様に、自分が嫌いなもの、ないし下らないと思っているコンテンツであっても、周りを見渡せば、その駄作を喜色満面で絶賛している人を少なくとも一人は見つけることができるだろう。
とはいえ、人間というのは共感する生き物である。みんながみんなおもしろいといっている作品を見たとき、やはり自分でもおもしろいと感じるということはありうる。反対に、自分が感じている好き嫌いの価値観が、ある程度までは少なからぬ数の他人にも当てはまるのではないか、と身勝手にも考えてしまう。それが仮に錯覚や幻想でしかないのだとしても、この性向は変えることができない。人はついつい自然に、「俺がこんなにつまらないと感じたのだから、みんなもそう思うだろう」と結論したがる。それが早合点にも過ぎるというのは上述した通りだ。たとえ幸運にも自分の価値判断について多くの賛同者を得ることができたとしても、それは真実単なる「幸運」に過ぎず、原理原則としてそのような一致が得られる、ということではありえないし、むしろ不一致の方こそ日常茶飯事であろう。
とはいえ、理屈でそうわかってはいても、心で感じたことに嘘はつけない。悲しいかなそれが時代や世情に逆行する孤立した意見であろうとも、俺は最近感じているのだ、「何やらおもしろいものが減り、つまらないものが増えて来ているのではないか?」と。申し訳ないが、テンプレラノベアニメは5分と見続けられないし、勘違いした大学生のノリそのままのお笑い芸人の存在は本当に「お笑い」だと思うし、「人気者たち」の台頭によってせっかくの実力ある動画職人たちが影に隠れてしまっていると信じている。残念ながら、これら俺がつまらないと思っているコンテンツにもファンはいる。そのこと自体はどうしようもない事実だが、何が真に残念かといれば、いま俺が主にうろついている場所で、俺自身と、俺と価値基準を同じくする諸々の人たちがそろいもそろって「少数派」になっているかもしれない、あるいは将来そうなりうるということだ。新しく後から「そこ」に来た人たちは、「俺たち」がおもしろいと思っていた伝統を受け継ぎつつも新たな風を吹き入れようとして……いるわけではないらしく、あくまで彼らにとってよいと感じるもので「そこ」を埋め尽くそうとしている。俺たちの望まないもの、あからさまに無価値なものたちの集積でもって、「いいもの」を侵食し、押し流し、置き換えようとしている。
もちろん、似たようなことは俺も含めて人間誰しもやることだ。そのことに文句をいっても実は仕様がない。ただただ切実な問題は、気づかぬ内に辺り一面の糞の山に押し込められてしまったら、一体全体どうしたらいいのか、だ。もしも取り返しのつかないレベルで俺たちがマイノリティに成り下がっているとすれば、周りの廃品を少しずつ取り除き、一つ一つぴかぴかの新品と地道に取り替えていくかのごとき作業は、全くの徒労に終わるに違いない。戦況次第ではあるが、旗色が悪ければ戦略的撤退、というよりは、移民の決断を迫られることだろう。移民それ自体はそこまで悪いことだとは思わない。廃墟と化した豪邸にいつまでもしがみつくよりは、まっさらな荒野に掘っ立て小屋でも立てて、志の近しい人たちとの団欒を楽しむ方がいいだろう。問題は「俺たち」というのが果たして実際どれだけいるのかだ。新天地へと旅立たんとする同志諸君の実数が、結局物の数ではないということになれば、せっかくの移住も意味をなさない。労働者たちだけでは新しい街は作れない。適切な職能の分化と適度な人口配分がなければ、長々と書いたこの文章も画餅に帰するわけである。
この指とまれの合図があったとき、時宜に適えば迷わずそれに手を貸すべきだろう。古参だ石頭だ懐古厨だなんだと罵られるのは構わない。自分に嘘をついてまでつまらないものをおもしろいというよりは、すっかり場所を明け渡してしまって、おもしろいものがたくさんあるところに行きたいものだ。