とつとつとしてろうとせず

ひまつぶしにどうぞ。

エゴの自覚

自然環境の保護や環境負荷の低減を行うことは「よい」ことである。しかし、それは「道徳的によい」ことなのではもちろんない。それは人間にとって「好ましい」という意味でよいのであり、人間の利益に叶った行動であるという意味でよいのである。しかし、一旦そうであるという認識(環境保護がよいことであるという認識)が広まり、それを行うことの必要性が共通了解として普及すれば、今度はそれを行うことは「道徳的によい」ことであるといわれるようになる。つまり、単に人間のエゴイズムから生じた「必要性」が、人間の損得とは無関係に行わなければならない「必然性」に変化するのである。なぜこのようなことが起きるかといえば、その方が本来の必要性を満足するのに手っ取り早いからであろう。必要性の段階は合理性の段階でもあり、それを行わなくてもすむような状況になれば、それに対する強制力は働かない。しかし、必然性の段階は理屈抜きで特定の行動を強制される。同時に、それを行うことで道徳的な人間であるというプラスの評価を得ることができるという、道徳的な価値が付与される。つまり、道徳的必然性を根拠とすることでより強い理由付けを与えることができるのである。こうして、環境保護をすることは道徳的によいことになり、それに協力しないことは道徳的に悪いことになる。
環境保護とは生物が行う周辺環境の改変に他ならず、いわば昆虫や哺乳類にとっての巣作りのようなものである。他の生物はそうした巣作りを本能という必要性だけによって行うが、人間は必然性によってそれを行う根拠を補強しないと本格的に行動できないようになっているらしい。それは進化というべきか、進化の弊害というべきか。いずれにせよ、環境保護はキレイ事抜きでやらなければならない。重要なことは、それが本来的には人間のエゴに基づくものであるということを自覚しておくことである。道徳的必然性はそれを助長する手段であっても、それ自体が目的ではない(手段としての道徳は容易に自己目的化されうるが)。その点を抑えておかないと、人間にとって好ましくないという意味で「悪い」判断を行ってしまうかもしれないからだ。どこまでいっても、それを蔑ろにすることは「悪い」ことなのだから。