とつとつとしてろうとせず

ひまつぶしにどうぞ。

慈悲の出処

無我の境地というものが、主観の客観視を極限まで遂行したものだとすれば(それが人が普通に感じることのできる「あの感覚」を究極的に煮詰めたものだとすれば)、なぜ慈悲という心理が湧き起こるといえるのか、俺には分からない。感情移入の能力と自己の世界視は関係ないように思う。もしもそれが湧き起こるのだとすれば、それは無我ではないのではないか? 無我はトランス状態ではないという主張は理解できる。しかし、無我によって慈悲に目覚めるという主張は理解できない。そこには何ら必然性がないように思える。無我は慈悲の原因ではない。それは傾向性の問題であって、結局のところ、それはある種の錯覚に過ぎないのではないか。もちろん、大多数の人間にとっては有用で妙なるものであろう。ただ、俺には関係のないことなのだと思う。