とつとつとしてろうとせず

ひまつぶしにどうぞ。

ツンデレ坊主

最も誠実な聖職者とは、人生の道に迷い、宗教に救いを求める憐れな民衆に対し、決然といってのける者をいうのではないか、いわく、「いやいや、お前ら宗教とか胡散臭いもんに手ぇ出してんじゃねぇよ。ンな暇あったら働け。勉強しろ。子ども作れ。無理なら恋人探せ。人並みの幸せつかむ努力しろ」と。求道者の幸福が在家のそれと同じであるはずはない。出家は一般的な価値観から見れば不幸でみすぼらしい生活を送るただの乞食である。彼らとて彼らなりの幸福を求めるがゆえにそうしているのだが、大多数の人間からすればやはりその生き様は変態だ。聖なるものとは変態をいうのだ。だからこそ、彼らが誠実であるのなら、彼らは彼らのような変態にはなるなと忠告してくれるはずである。誠実な商人は、自分の扱っていない商品を求める客には、それを扱っている別の商人を紹介する。不誠実な商人ほど、客が求めるものを持っていないにも関わらず、あの手この手で客をいいくるめ、手持ちのガラクタを強引に買わせようとするだろう。宗教者といえどそれは同じはずだ。ゆえに人は、人生の道に迷ったとき、まるで歓楽街のホストのごとき滑らかさでもって優しく教えを説く布教アルバイターにではなく、冷たくこちらをあしらうツンデレ坊主をこそ頼るべきなのだ。そんなドMのような変態じみたことはできないというかもしれない。それはそれで幸せなことだ。自分は聖職者に用事を思いつくような変態ではなかったとわかったなら、そのことに胸を張って明日からの仕事に精を出せばよい。逆に、もしも自分が変態だと気付いてしまったなら、せめて詐欺師ではなく、道の先達たる同じ変態を訪ねることだ。庵に趺坐する石頭とて、三十年も通えばデレ期も来ようというものだ。