とつとつとしてろうとせず

ひまつぶしにどうぞ。

代わりになるもの

宗教が共同体の紐帯となり、道徳の教師となり、熱情と信念の拠り所となることを期待している人々は、結局のところ、共同体の紐帯が、道徳の教師が、熱情と信念の拠り所が欲しいのであって、それらが労せずして手に入るのであれば、必ずしも宗教そのものを必要としているのではないのではないか。宗教は人々を束ねる旗印になるから希求されるのであって、同様の機能を果たすものがそれよりも容易に得られるのならば、神であっても皇帝であってもアイドルであっても、それは宗教の場合とまったく同じように肯定されるのではないか。これは宗教に対する機能主義であろう。
俺には、子どもを寝かしつけるための「お伽話」としての宗教は不要である。俺が求めているものは、そもそも宗教ではないのだろうが、少なくともそのような機能的な宗教ではない。彼らは子どもをしつけることができればそれでいいいのだろう。ご近所さんに元気なあいさつができて、学校で真面目に勉強して、たくさんの友だちと楽しく遊び回って、兄弟姉妹の面倒を見て、困った人の手助けを進んでする、そういう「いい子」が作れればそれでいいのだろう。もちろん、そのような子どもが多く育つことはいいことだ。それは否定しないし、冷たい義務として協力もするだろう。それでも、その活動の基盤となるものとしての宗教には、寸毫も興味はない。俺が探しているものは、共同体の紐帯や道徳の教師や熱情と信念の拠り所の代わりになるものではない。決して代わりになるものがないもの、代替物を持たず、唯一無二で、動かすことのできないものこそが、俺が欲しているものである。そんなものがあるのか? もしないのなら、ないという事実を知ることが重要である。現状、それが機能的な宗教ではないということだけはよくわかっている。