とつとつとしてろうとせず

ひまつぶしにどうぞ。

最上の牛はクルグズに生まれるか

「アラ・カチュー」に関するニュース記事を読んだ。記事の中で一番気になったのは、現在の暴力的な誘拐結婚の実行方法は二十世紀に入ってからの「流行り」で、元々それは親の決めた結婚を拒否するために行われる単なる「駆け落ち」に過ぎなかったというものだ。つまり、結婚が当人同士の意思に基づいて行われるようになれば、本来的な誘拐結婚はその意義を失うはずである(少なくとも法的にはすでに違法行為らしい)。しかし、主には経済的な理由で(結婚という行事そのものにかかるコストを下げられるのと、花嫁と子どもという働き手が得られるためだそうだ)、花嫁の強奪は周囲の親族から求められるものなのだという。中には伝統の二文字を隠れ蓑に自らの暴力行為を正当化している不届き者もいるが、結局は女性の地位が低いことが根本にあることが原因かもしれない(クルグズスタンは七割方イスラーム)。
この手の問題について、「他国の文化慣習に自国の価値観で口出しをするな」という人がいる。確かにそれにも一理あるが、だからといって、何でもかんでもそのような不干渉不介入を掲げてお茶を濁すのは相対主義の実践などではなく、単なる見て見ぬふりの事なかれ主義でしかないだろう。大抵何かが国際的に問題視されるのは、それを問題視する人間がその国の内部に一定数いるからだ。もちろん、干渉と介入には最後まで慎重になるべきではあるだろうが。いずれはクルグズの地にもガウタマさんのような人が生まれて、誘拐結婚の廃止を啓蒙したりするのだろうか。
ああつまり、何がいいたかったというと、血と涙と悲鳴と暴力の存在が確実な状況においてなお、それが道徳的な問題だと見なされないような世の中ならば、娑婆もたいがいマッポーじゃんよ、ということだ。

そういえば、この前読んだル=グウィンの『ギフト』にもさり気なく略奪婚が描かれていて少々驚いたのを思い出した(普通に財産である牛や馬の奪い合いとかで殺し合いしてる世界なので、それが悪いことだという感じには描写されていないのがおもしろかった。ル=グウィンは白人を主人公にしないというが、自分がいかに現代日本的=西洋的な価値観の中にいるかを知れて楽しい)。久しぶりに(といっても、ル=グウィンの本は『ゲド戦記』の三巻までぐらいしかきちんと読んでないのだが。『闇の左手』とかやっぱ読むべきかなぁ)この手のファンタジー小説を読んだが、なぜだか一気に読んでしまった。翻訳がよかった(と俺には思われた)せいかもしれない。引き続き『ボイス』と『パワー』も読むつもりだ。

無理やり連れ去られる女性 結婚相手は「誘拐犯」 :日本経済新聞
「誘拐」された女性が、結婚を受け入れる本当の理由 :日本経済新聞
第1回 誘拐の場面に遭遇して | ナショナル ジオグラフィック(NATIONAL GEOGRAPHIC) 日本版公式サイト

ギフト (西のはての年代記 (1))

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