とつとつとしてろうとせず

ひまつぶしにどうぞ。

仮設されたシンボル

仏教徒にとって、ガウタマ・シッダールタが歴史上実在していたかどうかはどうでもいい話である。少なくとも、その生涯を伝えるとされる記録は、明らかに仏教という思想を解説するための単なる寓話であり、史実を精確克明に記した考古学的資料ではないことは、仏教徒自身が一番よくわかっている。しかし、このことは仏教徒の信仰に何ら影響しない。なぜなら、仏教徒が寄る辺とすべきものは仏陀の存在そのものではなく、人を仏陀とする教え、すなわち法の存在だからである。仏教を信じるとは、仏陀になることが人間にとって幸福であると信じること、そして、すべての人間が仏陀になる可能性を持っていることを信じることである。そのために仮設されたシンボルとしてガウタマ・シッダールタと彼の物語は機能している。つまり、仏陀は法によって人が幸福に至った実例として紹介されているのだ。
仏陀がなぜ尊崇の対象となるのかといえば、彼が法を明らかにしたから、教祖として仏教を始めたとされているからではない。彼が最も法をよく知り、最もそれを体現した人物とされているからである。仏陀の生まれ、容姿、人格といった個人的な資質は、仏教徒が彼を尊敬する根拠にはなりえない。たとえば、心ない者が美しい仏像を粉々に打ち砕いたとしても、仏教徒は少しも揺るがない。破壊者は偶像を壊すことはできても、法そのものを傷つけることは決してできないからだ。法こそが最も重んじるべきものであり、それは偶発的な個人の特殊性に何ら影響されない。