とつとつとしてろうとせず

ひまつぶしにどうぞ。

世界の壁は超えられない。なぜなら壁など存在しないから。宇宙は無限の陥穽だ。穴の奥にはまた穴がある。どこまででもいける代わりに、その向こう側には決していけない。向こう側などないからだ。真空を掘り尽くすことはできない。土と真空は別物であり、比喩が通じると思ってはいけない。それは錯覚であり、混乱した言語の濫用でしかない。
では、道徳の壁は超えられるか? そこには確かに、壁のようなものが存在しているように思われる。しかし、それでもそれは不可能だ。今度は、超えるという表現が意味を持たない。こちらからなら、そびえ立つ壁が地平の彼方にうっすら見えるし、地平線と違ってその側まで近寄ることもできるだろう。だが、それを超えることはできない。それは連続した過程ではないからだ。壁の上に跨って、両方の土地を見下ろす類のことはできない。壁の向こう側にいってしまった者は、向こう側に着くのではない。新しいこちら側にいくだけだ。いや、新しいのでもないし、いくのでもない。移動や遷移が起こるのではない。変化の痕跡は一つも残らない。だからそれは変化ではないのだ。それは言語を捨て去る行為であって、言語がない境地をその言語によって表すことはもはやできない。別の生き物には別の壁が見える。それが不連続であることすら本来は語ることのできない変異であるがゆえに、道徳の壁は超えられない。
真新しさなど微塵も感じない。無限に古い過去、懐かしさでむせ返るような慣習が、プランク時間の切れ目ごとに、まったく新規に用意される。