とつとつとしてろうとせず

ひまつぶしにどうぞ。

力の源と盲目の意志

逆真理条件という発想を捨てきることができないというのであれば、魔術は、論理空間に含まれる諸事態の中から一つを選び取り、それを事実として実現する神のごとき力を持つものとして設定されなければならない。なぜその技術が魔術と呼ばれるかの所以がここにある。現実では、何が事実として成立するかは偶然性によってのみ決定される。しかし、記述するものと記述されるものの関係性を逆転することから出発したこの設定においては、事態を事実たらしめる何らかの要因が必要となる。それは一種の奇跡であり、つまりは奇跡をなすほどの強大な力が必要なのだ。世界を選択する力、術者が望んだ風景を現実のものとする異能――これを魔術といわずして何と呼ぶのか。
ではその力の源とは何か? それは盲目の意志である。結局、サハーとは自律展開するスピノザ的な神の運動であり、それは究極的な最高の状態を目指している。しかし、何を以って最高であるのか、その基準がそもそも知られていないので、サハーは迷妄の渦中にあり、統一されておらず、対立する意志の表象が衝突することによって流転していく(『涼宮ハルヒ』に出てくる「情報統合思念体」のようなものだ。同じ存在から分かたれ、同一の目的を志向して行動しているはずなのに、最善へと至る過程についての基準や方針が合致しておらず、エージェントたちは互いに協力もすれば闘争もする)。サハーにおける事態の構成要素としての対象は、すべからくこの盲目の意志の表象である。なぜ魔術師が神のごとき力を振るうことができるのか、なぜ原理的にはすべての人間が魔術師となりうるのか。その理由は、人間が事態の構成要素としての対象であり、いうなれば神の一部であるからだ。
とはいえ、魔術とはあくまで論理空間に含まれる事態を実現するものであって、そこに含まれない事態まで実現しうるような無際限なものではない。サハーは無秩序ではなく、ある内的連関にしたがって運動する。また、魔術同士の干渉という、非常にややこしい問題も、この制約条件の下で思考しなければならない(炎の魔術と水の魔術の衝突は本質的な問題ではない。問題となるのはものを赤色にする魔術と青色にする魔術の衝突である。それはカラーボールの投げ合いでは済まされない!)。
ロゴスによる魔術は、エネルギー設定とは無縁でなければならない。しかし、力の概念の導入は、その定量的定式化を免れえない。それは本質的に数値によってその大小を比較可能なものだからだ。力が大きいとか小さいという文は、明らかに有意味である。では、力を定量的に把握不可能なものとして改めて設定しうるか? それは不可能である。サハーもまた、現実世界から何らかの尺度において到達可能な世界の一つなのだから。ということはつまり、この設定もまた、「魔力」という単語から自由ではない。しかし、その内容に、エネルギー概念を持ち込むかどうかは議論の余地があるかもしれない。もちろんそれでも、「お話としておもしろいかどうか」という別の観点からすれば、やはりエネルギー設定は悲しいほどに便利極まりないものであるのだが……。