とつとつとしてろうとせず

ひまつぶしにどうぞ。

合理的な魔術への到達可能性

現在の自然科学は帰納法による推論、すなわち、自然の斉一性を原理として仮定することで成り立っている。ある現象が十分に単純で外乱に対して頑健であるならば、その現象の原因となる現象を起こすことで、その現象は何度でも再現することができる。
魔術の可能性は、一見、この斉一性の原理と相反するもののように思える。魔術によって引き起こされた現象は、自然の因果律に基づいておらず、再現可能性の概念を脅かす。しかし、われわれは本当にこの原理の外に出て、この原理に頼ることなく、建設的な思考を行うことができるであろうか? われわれがこの原理を介することなく思考することが実は不可能なのだとすれば、逆説的に、魔術に対する(この原理を前提とし、われわれの体系と同様の構造を持った体系であるという意味で)合理的な説明が可能になるのではないか。「最近のラノベの魔術設定は凝り過ぎる」という俗論は、実はわれわれの思考が虚構世界のどの範囲まで適用可能であるかを試す、無意識的な思考実験をワナビたちが行っていることの現れかもしれない。もちろん、大抵の場合、魔術に対する合理的な説明の試みは失敗する。しかし、当然重要なことは、その失敗によってわれわれの思考の本質の一端が明らかにになるかもしれないという可能性であって、どうすればそれが成功するかではない(ワナビ本人引いては読者もその失敗に頓着しないという意味でも、その失敗は重要ではない。なぜならそれは作品の面白さを決定付けるものではないから)。
われわれの思考を限界付けるすべてのものが、魔術に対する可能な合理的説明を限界付ける。もしも「合理的な魔術」への忌避感が、懐古趣味の単なる感情的反発ではなく、このような議論に裏打ちされた、一定の根拠を持った反論であるとすれば、われわれはその反論を真摯に受け止め、吟味する必要があるだろう。それは流行り廃りの問題以上に思考すべき価値のある問題であるように俺には思われる。