とつとつとしてろうとせず

ひまつぶしにどうぞ。

首振りすぎて顔が痛い

右を見ても狂騒、左を見ても騒擾……大声を出した方が勝ち、上手い嘘をつける奴が有利、嘲り笑うための語彙力が豊富であればなおよし。自分に都合がいい情報は積極的に公開し、弱点となる事実はひた隠す。頷けば善人、背けば悪人、そんな態度は程度の低いフィクションの悪役だけのものかと思った? いやいや、現実は常に理想に敗北するものだ。それこそが理想の敗北でもある。なぜ人がことばを話せるのか、その意味を考えたことがあるだろうか、と問われた人々は、おそらくこう答える。「もちろん、気に入らない奴を思いっきりバカにして泣かせるためさ」。そうとも、感情を抑制し、客観的なデータを元に議論を展開し、論理に破綻があれば互いに即座にそれを認めて修正し、最も合理的な結論に向けての協同作業として話し合う、そんな高等な芸当など、どんな動物にだってできはしない。
もしも慈悲を、悲劇を一度自分のこととは思わないよう心から隔離した上で、改めてそれを「かわいそうな誰か」のものとして同情する心だと定義するなら、まつりごとにも慈悲が必要なのだろう。みな種々の問題をわがこととして引き受けるからこそ過剰に熱を帯び、湯気で前が見えなくなっているようにしか俺には思えない。シミュレーションゲームか何かだと思ってやれないのだろうか。少なくとも、何かを検討する過程においては、残酷なまでの冷静さが不可欠だと思う。そこから最も「優しい」結論を引き出すためには。