とつとつとしてろうとせず

ひまつぶしにどうぞ。

哲学的、文学的、衒学的!

優れて哲学的な物語が優れて文学的であるとは限らないし、逆もまたそうである。しかし、優れて哲学的な物語は表面上明晰判明であろうし、優れて文学的な物語もまたそうであろう。「哲学的」とは表現や文章が難解で晦渋であることを意味しないし、「文学的」についてもまたそうである。「哲学的な難しさ」とは扱われている問題そのものの難しさであって、問題を解説する文章それ自体はむしろ平易に書かれなければならない。なぜなら問題の難しさを理解するためには、問題の解説そのものを理解しなければならないが、それが難解であっては意味がないからである。そして、「文学的な奥深さ」とは取り上げられるテーマそのものの奥深さであって、テーマを内包する表現そのものはむしろ簡潔でなければならない。なぜならテーマの奥深さを伝達するためには、テーマの表現そのものを読解しなければならないが、それが悪文であっては目的が達せられないからである。
忘れてはいけないことは、一見して難解な専門的な概念や用語といったものは、本来それが扱おうとしている問題を簡単化し整理することで理解を容易にするためのものだ、ということである(物理学が難しいのではない。難しいのは物理そのものである。物理学を学べば学ぶほど、難しそうな概念や数式の多くが、もっと難しい自然の性質を単純化したただのモデルに過ぎないことがわかる)。人間のコミュニケーション活動にまつわる諸々の分野において、大抵の場合、難解さは忌避されるべき性質である。理解のしやすさを追求するあまり、見かけ上理解不能な表現ができあがることもままあるが、それは意図した内容を伝達できない限り、表現として失敗であるといわざるをえない。目的と手段は常に一定である。それが取り違えられることがあるとすれば、それは取り違え自体を目的とする衒学的な遊び以外にはない。哲学的な用語や文学的な表現を本来の領域から離れて使用することは、哲学的でも文学的でもない。

……まぁ、衒学という遊びがとても楽しい遊びであることは認めるがね。