とつとつとしてろうとせず

ひまつぶしにどうぞ。

渇きの底

珉道者曰く「宗教者はこんなにも濡れたハートを持っている」。確かにそうかもしれない。ということは、やはり俺の求めるもの、思想的支柱となりうる何かは「宗教」ではないのだろう。俺はむしろ、心の水気をすべて取り除いたとき、渇ききった心がなおも拠り所とすべきものが何なのかを知りたいのだ。
珉道者は「ノミのキンタマ八ツ割程の悟り」がなければ仏教について語れぬという。俺が不思議なのは、なぜこうも悟りという「体験」を重視するのか、ということだ。自然主義的観点からすれば、悟りもまた五蘊仮和合の産物である。それが素晴らしいと思えれば思える程、その価値を減じていくように思えてならない。俺にはもはや健全な心身に宿る状態と、人工的で外的な作用によって再現された状態の区別がつかない。
もちろん、「体験を軽視する心の傾向」もまた一つの心理的傾向には違いない。心の仕組みを明らかにすることは、心が何かを求めているという事実、何かを求めてやまない心そのものを無化するものではない。そういった心を鎮めたいという欲求に仏教は応えてくれるのだから、ありがたいものには違いない。