とつとつとしてろうとせず

ひまつぶしにどうぞ。

自然さという不自然さ

自然という語を調べると、「人手を加えない、物のありのままの状態・成り行き」「人為が加わらないこと・本来そうであること」という意味だと書いてある。しかし、何かが自然である、あるいは不自然であるといわれるとき、人為が関わっていないことの方が少ない。それはむしろ、狭量で手前味噌で浅薄な思い込みにのみ支えられたグラグラの信念から発せられた思想である。自然であるといわれることの大半は、明確な人為が関わっているという意味で、すでにして自然ではない。
ヒューリスティクスとしての帰納的推論が、生存に有利で非常に実際的な機能であることは否定できないが、それが確率的アルゴリズムでしかないことは論理的な帰結である。我々が確かだ普通だと信じていることの大半は確かでもないし普通でもない。にもかかわらず、人格破壊を避けつつ形成済みのニューラルネットを修正することは事実上ほとんど不可能であるので、人が自分の信念を裏切る対象に出会ったときの反応は押し並べて保守的であり、概ね暴力的である。
我々は次のような信仰を持つべきだろう。すなわち、絶対に信じられる何者も存在せず、確実にそうだと断じられるものは何一つ存在しない、という信仰を。「自然さ」なる不自然な尺度に盲従し、人が本来持つ闘争本能を垂れ流しながらあるがままの裸体を曝すような痴態こそ「自然である」というのなら、文字通り「問題ない」がね。