とつとつとしてろうとせず

ひまつぶしにどうぞ。

名詩

名詩というは何よりも、鋭利な刃でなければならない。見るものの心臓を貫き、聞くものの脳髄を切り裂くものでなければならない。研ぎ澄まされた詩人の心が波紋をぎらりと光らせるのでないなら、どうしてその名を衆人の目に刻むことができようか。
名詩というは何よりも、強固な鎚でなければならない。読むものの喉笛を震わせ、詠うものの鼓膜を打ち破るものでなければならない。鍛えられた詩人の血が凝り固まってどしんと地面を揺らすことがないなら、いかにしてその業を衆人の記憶に焼き付けることができるだろう。
金切り声も出さないで歌われる歌の何と薄っぺらいことか、抜け毛で作った筆もなしに描かれた絵画の何と安っぽいことか! 力の宿らぬ言の葉をいくら携えたとて、それは名詩ではないのだ、名詩にはなり得ないのだ。

Colabolatoryといふもの

先達からjupyter notebookが便利だよと教えられ、色々いじっているこの頃であるが、どうやら去年ぐらいからChrome上でjupyter notebookが使えるColaboratoryなるGoogleのサービスが始まっていたらしい。少し触ってみたが、GUIは(一部?)日本語化されているし、処理系も2系と3系を選べるようになっているので、その道に詳しい方には非常に役立つのではなかろうか。ネットに繋がるならpythonの環境構築をせずとも同様の感覚でブラウザ上からjupyter notebookが使えるのは魅力的だと思う。元々機械学習分野の教育/研究向けらしいが、numpyとscipyが使えるので線形代数を必要とする人々すべてが対象といってもいい気がする(足りないライブラリはpipで追加できるらしい)。ありがたく勉強に使わせていただくとしよう。惜しむらくはsympyが使えるのにinit_printing()できれいな表示ができないことぐらいか(正確にはLaTeXコマンドが表示される)。

長いこと放置してたまにしか更新しないのに、なぜか先月辺りからPVが一桁増えている。毎月100いけばすごいぐらいだったのに1000とかいっててビビった。もちろん、いまでも過疎ブログには違いないのだが、何が起こってこんなことになったのだろうか。謎すぎてけふとし。

明らめる

思うように躰が動かせなくなった時、俺は悲しみを感じるだろう。俺は医者に尋ねたり、医学書を読むことで自身の不自由さの物理的原因を知ることができる。しかし、その事実を明らめることによって、躰を自由に動かしたいという願望まで諦めることができるだろうか。できはしないだろう。むしろ非現実的な物理的解決策にとらわれ、絶望はいや増すことだろう。単なる理性的判断では怒りと悲しみを吹き消すことができないからこそ、宗教と呼ばれるものが存在しうる。篤信家は事実を知ることによって精神的平衡を実現するのではない。彼は精神の在り方そのものを変えることで、本質的に不安定性を回避するのだ。

手をもみ、祈願せざるを得ない人間に、彼は誤っているとか妄想を抱いているとどうして言えようか