とつとつとしてろうとせず

ひまつぶしにどうぞ。

2014-08-01から1ヶ月間の記事一覧

属人主義の排斥

ある思想の価値を吟味するにあたって、誰がそれを主張したのかといったことは重要な論点ではない。思想の妥当性はその内容によってのみ判断されるべきであって、その作業に権威主義を持ち込むのは間違っている。釈尊がそれをいったのか、キリストがそれをい…

わたし、離魂します!

釈尊は霊魂の存在に対して「無記」の態度を取った。すなわち、霊魂が存在するかどうかについて肯定的な意見も否定的な意見もあえて述べない、と表明した。このことの揚げ足を取って、「お釈迦さまは霊魂があるともないともいわなかったそうだが、その実霊魂…

最上の牛はクルグズに生まれるか

「アラ・カチュー」に関するニュース記事を読んだ。記事の中で一番気になったのは、現在の暴力的な誘拐結婚の実行方法は二十世紀に入ってからの「流行り」で、元々それは親の決めた結婚を拒否するために行われる単なる「駆け落ち」に過ぎなかったというもの…

本当にいるかどうかはこの際どうでもいい

神から離れて生きるべきだという思想(離神論)において、その実在性は本質的な問題ではない(また、実在性ということばにどれだけの意味や重要性が込められているかということも関係ない)。それはかくのごとく記述される神という存在が仮にいたとすれば、…

幸せの形

宗教に帰依するとは、その宗教が規定する幸福の観念を受け入れるということだ。つまり、その宗教の価値基準を肯定し、それに従って物事の判断をすると宣誓することである。宗教の選択とは、幸せの形を選び取ることに他ならない。だからこそ、俺はいかなる宗…

礎を異にするものが折り重なってある

宗教と道徳は独立している。邪教の存在がその証左である。つまり、道徳的でない宗教の存在は、道徳的であることが宗教的であることと同義ではないということを意味している。邪教徒は自らの行いが道徳的でないことを自覚すらしているだろう。それでも、その…

代わりになるもの

宗教が共同体の紐帯となり、道徳の教師となり、熱情と信念の拠り所となることを期待している人々は、結局のところ、共同体の紐帯が、道徳の教師が、熱情と信念の拠り所が欲しいのであって、それらが労せずして手に入るのであれば、必ずしも宗教そのものを必…

相容れない

やはり宗教者とは相容れない。俺が必死になることがらと、彼らが必死になることがらとはまったく領域を異にしている。俺は彼らの懊悩を理解しないし、彼らは俺の苦悩を認識しない。俺の熱情は彼らには狂気に映るだろうし、彼らの激情は俺には正気の沙汰とは…

思想の根拠としての宗教選択

自らの思想を正当化し、その後ろ盾とするためだけに、特定の宗教を礼賛し、その庇護を求めることに、何か特別な意味はあるのだろうか。彼はその宗教の存在とは独立に、自らの価値観を把握し、その思想を正しいものだと信じている。それでは不十分なのか? そ…

信じるものを選ぶ

思想と信仰が原理的に選択可能なものである以上、そこに絶対はなく、また真理もない。絶対の真理とは、その内実に関わらず、選択不可能なものだからである。それは必然的に同定されるものであって、個人の嗜好や性状によって信頼されたり打ち捨てられたりす…

四半世紀

四半世紀が過ぎ去った。現代的な基準からすれば、それは人の生涯の四分の一に相当する。ホールケーキの四分の一は、一人あたりの分量としてはちょっと多い。浴槽の高さの四分の一だと、半身浴にもまだ遠い。テストの点数が四分の一だと、文句なしに補習確定…