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とつとつとしてろうとせず

ひまつぶしにどうぞ。

「死後」と〈死後〉

死んでしまった後、自分がどうなってしまうのかを気にする人は多い。なぜこのようなことを気にすることができるのか? もっというなら、死んでしまった後にさえ、どうにかなってしまうことが可能であるとなぜいえるのか? それは、ここでいっている「死」というものが、単なる状態の変化に過ぎないからである。これは結局、朝目覚めたときに全く見知らぬ土地にいたとしたらどうしよう、という類の心配と同種である。それは当然想定可能な出来事なので、そのことを想像しておびえたり、あれこれと思いをめぐらせたりといったこともできる。しかし、こんなことを人は恐れているのか? いや、確かにそれは人が恐れるもろもろのものの大部分を占めるものの一種であろう。それは将来自分がどうなるのかがわからないことへの不安である。ただし、そうした事態を経験する意識的に連続した自己の存在は自明なものとして前提されている。そうとも、何かが起こるためには、それを経験する自分がいなければ話にならない。だからそれは、何が起こるかへの心配であり、悲喜こもごものそれらを引き受けるのが自分であるからこその悩みである。とはいえ、これが本当に人が恐れる死というものなのか。本当に恐れるべきは、それを経験する自分というものがいなくなることなのではないのか? 単なる状態の変化などではない、むしろ状態そのものの消滅という意味での〈死〉を、人は恐れなければならないのではないか。しかし、それを恐れるというのはどういうことか。それは本当に恐れなければならない悲しい出来事なのか。
この世界は実は「死後」の世界なのだ、と突然打ち明けられたとする。それで何かが変わるだろうか。変わるだろう。実は自分は「死」んでいて、過去の自分は「死」という状態に変化する前の状態であった、ということがわかる。では、この世界は実は〈死後〉の世界なのだ、と囁かれたらどうだろう。まずもっていいたいことは、そんなことがどうしてお前にわかるのだ、ということだ。なぜなら〈死〉とは状態の変化ではありえないのだから、〈死〉というものに連続した過程としての前後というものはないのである。〈死〉は本質的に不連続であり、したがって〈死後〉という概念は端的に矛盾している。それでも仮に、本当にその通りであるとするなら、そのことによって何かが変わるだろうか。何も変わらないはずだ。それはまったくといっていいほど別世界の話であり、現在の状態とは何の関わり合いも持ってはいない。「死後」の世界とは、実は現実のこの世界のことを指しているが、〈死後〉の世界とは、それが不可能な概念でないとしても、考慮に値しない無関係な世界でしかない。