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とつとつとしてろうとせず

ひまつぶしにどうぞ。

目的としての宗教

西田幾多郎がいうように、宗教というものが手段ではなく目的であるのなら、宗教は精神安定剤ではありえない。精神の安定と宗教の遂行が同義でない限り。しかし、それは幸福へと至る方法論なのではなかったか。否、幸福の実現と宗教の遂行が同義でない限り。西田にとって、宗教は宗教心それ自体によって自律的に駆動されるものだったのかもしれない。そうでない、ある種の霊的な力を伴わない、どこか醒めた、打算的な思考に裏打ちされた一種の喜劇としての宗教は、西田の眼中にはなかったのかもしれない。だが、多くの人にとっては、目的としての宗教よりも、手段としての宗教がもてはやされているのではないか。原理主義的宗教組織によるテロリズムの実行に大衆が眉をひそめるのは、それが手段としての宗教と見なされているからだろう。つまり、その本来の役割は人を幸福に導く活動であるべき宗教が、他者に不幸をばら撒く凶行に及ぶ様は、彼らの目には矛盾として映るのである。しかし、目的としての宗教は、おそらく大衆には理解されない。社会システムを統御する機能を果たさない宗教に、彼らは関心を示さない。彼らには、そういうものがあるということの理由が、幸福によって駆動されない活動の存在が、よくわからないからだ。それは本当に追い求めるべきものか? いや、それは追い求めるものではなく、ある日突然運の悪い者が背負い込んでしまった呪いのようなものなのだ。呪われた人間は、否が応でも呪いを中心とした生活を送らざるをえない。呪いを解くことだけが、彼にとっての幸福なのである。ここにおいては幸福の実現と宗教の遂行は一致する。とはいえ、それが一致する人間は限られているだろう。呪われる人間の方が数少ないからこそ、それは呪いなのである。