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とつとつとしてろうとせず

ひまつぶしにどうぞ。

白衣がプラカードを持つべき理由

それが科学か科学でないかが問題なのではなく、科学的な手法と判断基準によって検証されているかどうかが重要だ、という主張があったとする。これは、科学的な手法と判断基準に従って検証を行うことが「よい」ことである、という主張を含んでいる。さて、これは一種の価値判断であるから、この判断を擁護するいかなる科学的な主張も存在しない。科学的にものごとを行うことを、科学的な手法と判断基準によって推奨することはできない。科学的であることがよいことであると、科学的に検証し、根拠付けることは不可能である。実際、政治的な場面において、科学的な知識が援用されることはあっても、その知識が政治的な判断を本質的に左右することはない。政治的な決定はあくまで徹頭徹尾政治的に下される(もちろん、政治腐敗はまた別問題だ)。つまり、科学者が科学的に振る舞うことの価値を主張するとき、彼はすでに科学者ではなく、一人の政治家である。それが悪いことだといっているのではない。重要なことは、科学を肯定する者と否定する者の対立は政治的な対立であって、一方の位階が他方に比べて優劣があるわけではなく、両者はその対立において同格であるということだ。このことに自覚的になった上で、われわれは科学的であることの価値を声高に主張していく必要がある。その対立が事実問題に関することがらで、自分だけはその真偽を知っているのだから、それを知らない人間には好きにいわせていればよいのだ、などと高をくくっていると、この退っ引きならない政治闘争に敗北することにもなりかねない。その先に待つ惨めな沈黙に、われわれは耐えることができないだろう。
科学を奨励する行為は政治活動の一環である。科学はおそらく宗教ではないが、しかしやはり、ある種の思想に分類されることまでは免れえない。研究者が象牙の塔に引きこもっていてはいけない理由は、研究予算がもらえなくなるからではない。われわれは、われわれが住む土地のすべてを象牙で覆い尽くし、ついには象牙と土の区別がつかなくなるその日まで、われわれの信仰を敷衍しなければならないからだ。いくら壁の内側で行進したところで、何もデモンストレイトされはしない。