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とつとつとしてろうとせず

ひまつぶしにどうぞ。

原子論的描像の破棄

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原子論的描像、すなわち、物体は最小単位の構成要素が結合することによって成り立つという命題を保持することなく、陶器の食器が衝撃によってバラバラに砕けるような、物体の破壊現象を説明することはできるだろうか。明らかに、現実世界における実際の現象をもとにこのような説明がなされているのであるから、原子論的描像の代替となる破壊現象の説明は存在しない。あるいは、「ものが分かれている」ということと「ものが分かれていない」ということの間にそもそも区別が存在しないような思考体系を導入することができれば、原子論的描像は必要なくなるかもしれない。そのような体系の下では、子どもが不注意で食器を割ったとしても、咎められることはないだろう。彼は何も特別なことはしていないからである。さらにいえば、部分と全体の対比、自然数で数え上げることができる個体という概念そのものを放棄すれば、「原子」という単語は意味をなさないだろう。とはいえ、われわれの思考体系に対してこのような恣意的な変更を再帰的に加えることは当然できない。
何がいいたいのか? もし原子論的描像を破棄することが不可能であるなら、空想の到達可能性という概念は最初からかなり強い制約の下にあるということである。現実世界の様々な物理現象がわれわれの言語の中に深く根を張り、その在り方を支え、そして拘束している。多くの虚構世界において、物体の破壊現象が起こるとされている。そうであるならば、その世界がどんなに現実世界と異なった異質な世界なのだとしても、その世界には原子論的描像が当てはまるのでなければならない。つまり、その世界の基本法則は原子論を基本法則の一つもしくは現象論的なモデルの一つとして含んでいるのでなければならない。破壊現象を前提にしておきながら、原子論を否定する体系は本質的な矛盾を内在しているといわざるをえない(それが物語にとって「致命的」かどうかはまた別問題だが)。
このようにいうと、原子論がどのような可能世界でも当てはまる(可能世界意味論的な意味で)「必然的」な理論であると主張していると思われるかもしれない。それはある意味では正しい。なぜなら、思考可能な「可能世界」の範囲が、破壊現象が可能な世界に限られるのであるなら、この主張はトートロジカルなものになるからである。もちろん、そうでない世界も思考可能かもしれない。しかし、多くの虚構世界は破壊現象を「描写」しており、この主張の是非はともかく、この主張と無関係でいられるような世界はほとんど存在しないだろう。したがって、かなりの数の虚構世界がこの議論の対象となる。その意味で、このようなことを考えることは無駄ではない、と俺は信じている(役に立つ、とはいわないがね)。