とつとつとしてろうとせず

ひまつぶしにどうぞ。

区別する者、見分ける者

われわれがなぜヲタクと呼ばれるか? われわれが区別する者だからである。ヲタクでない者は区別できない。不自然に目の大きく、重そうな頭蓋をぶら下げて歩く、声変わりをとっくに終えている三十代のれっきとした女性の甲高い声でしゃべる八歳の幼女と、実存する生後千ヶ月未満の児童の違いを。ヲタクは前者にのみ歓声を上げ、後者にはややもすると悲鳴すら上げるというのに! ヲタクは幼女とお近付きになりたいと思うことはあっても、児童に特別な感情を抱くことは、少なくとも自身のヲタク的感性を理由としてそうすることは、ない。なぜなら、幼女と児童とはまったく存在を異にする者たちであって、ヲタクこそはその本質的な差異を見分ける者だからである。幼女と児童の間に横たわる不気味の谷は深い。ときおりヲタクでない者が、その深淵を軽々と、いともたやすく飛び越えていく様を見るにつけ、われわれは大いに戦慄する。われわれはそのような軽はずみな行動はしない、いや、ほとんどできないといっていいからである。畳の上を畳縁だけ伝って歩けといわれれば誰にでもできる。だが、い草の上に踏み外せば奈落の底に落ちていくと知っている者には、命を懸けた綱渡りである。見えているものの違いが行動の違いに現れる。それはヲタクでない者のみに可能な芸当なのだ。
われわれはなぜ区別することができるのか? なぜヲタクでない者は区別することができないのか。それは長い間積み重ねてきた教練の賜物である。われわれは長きに渡って多くの教導を受け、訓練に励み、研鑽を積んできたがゆえにかくあるのであって、乳飲み子の時分から自ずとかように振る舞えたわけではない。したがって、ヲタクでない者が見分けることができないことを責めることはできない。それは自動車の運転を一度もしたことがない人間に、教習を受けさせることもせず無理矢理公道を走らせた結果起きてしまった事故の責任を、当人の能力不足として追及するようなものである。そうはいっても、運転免許を持っていることを理由に、将来交通事故を起こす可能性があるとして、資格保有者であるというだけで彼をあたかも銃刀法違反者のように「厚遇」すべきだと支離滅裂を喚き散らすような愚行もまた、本来であれば慎むべきはずのものなのだが……。
われわれが愛するものを、ヲタクでない者が知ることができるか? できない。彼らは区別することができず、見分けることができず、ゆえに精々、われわれの愛するものと、彼らがわれわれが愛するであろうと経験による裏打ちを欠いたままの頼りない空想によって仮定したものとを、勝手気ままに取り違えるぐらいであろう。この無為無意味なすれ違いを、浪費にして空費でしかない時間の損失を、どうすれば食い止めることができるのか? 答えは簡単にして難関。われわれが彼らを訓練するのである。生活空間を同じくしない者同士は本質的に言語を共有しえない。われわれは彼らを理解していると思っているし、おそらく彼らもわれわれを理解していると思っているだろうが、われわれと彼らの間を行き交う何がしかの多寡は推して知るべしである。深淵は、われわれと彼らの間にこそ存在する。だからこそ、彼らの生活空間を、われわれの水準にまで引き上げるか、あるいは引き下げなければならない。不幸な行き違いと呼ぶにはあまりにバカバカしいこの冷戦状態を終結させるためには、お互いがお互いの文化に染まるしかないのである。見えているものが違う以上、行動が一致しないのは当然の帰結である。