とつとつとしてろうとせず

ひまつぶしにどうぞ。

創り出すことと諦めること

仮に、全く疑いようがない程にはっきりと、自分が希望する状態の実現が不可能であることが明らかになったとする。そのような場合でも、さらにその不可能性を疑うことはできる。その疑い方には二通りある。一つは、これ以上ない程に明らかなその事実から導かれる望ましくない結論を受け入れまいと、まずはその帰結を否定し、異なる結果を得ようと道理の綻びを目を皿にして探し求めるやり方。もう一つは、その結論が「疑いようがない」ことの理由と前提条件を数え上げ、その論証を成り立たせている議論の構造をつまびらかにした上で、どうすればそれを疑うことができるようになるかを仮想的に検証するやり方。簡単にいえば、前者は感情的な態度であり、後者は理性的な態度である。前者のやり方に従えば、疑いようがない程に明らかだった結論は、飛躍や忘却や恣意的な仮定などによって必然的に覆る。それは予め分からない結論がどのようなものになるかを確かめていく作業ではなく、予め分かっている結論に向けて話をどのように着地させるかを考える作業だからだ。一方、後者は結論の内容にはさほど興味を持っておらず、むしろそれが可能になる条件を調べることを主題としている。その作業によって、やはりその帰結が疑いようがないものであったと分かるかもしれないし、常軌を逸しさえすればその結果もまた霧散しうると分かるかもしれない。後者にとって、それはどちらでもいい些事に過ぎない。
どこかの誰かが手ずから創り出してまで用意した人工的な希望に縋るより、原理と法則によって自己組織化された美麗な絶望に殺される方がマシではないのか。創り出すのは、せめて諦めてからではないのか? 空虚を愛でるのは、それを空虚と知ってからにすべきではないのか。空虚と知って空虚を愛でる人間は強いのだろう。しかし、空虚を愛せなくても、それは仕方ないのではないか。腐乱死体に目を覆い、鼻をつまむのは自然な態度であって、非難されるべきことがらではないのではないか。
結局、俺は伝統的な問題を考えている。優しい嘘が人を救うなら、人は嘘を吐くべきなのだろうか? 本当にそうなのか。冷たい事実が人を殺すなら、恬然として殺すべきではないのか。迷うことなく打ち殺すべきではないのか。もしそうでないのなら、真理の重みというものは、天秤に乗せてはならない最も信用できない粗悪なクズということになりはしないか。真理など犬の餌にもならない、ということか。そうかもしれない。そうなのかもしれない。だからつまり、お前を支えている諸々の思想とて、いかようにも転覆できる笹舟のようなものでしかないのだ。どうせ沈むなら金の大船に乗ればいい。血の染み込んだ錨と共に三途の川で溺れ死ね。それこそお前が望んでいた事態なわけだ、そうだろ?